平成における憲法論議
―私の体験を踏まえて―

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顧問・駒澤大学名誉教授 西 修

 平成の30年余、憲法論議はどのように展開されてきたのだろうか。国家機関たる憲法調査会と憲法審査会の設置を節目にして、大きく3期に分けることができるであろう。
 それぞれの期でなされてきた憲法論議を概観し、また各期において私自身、どんな発言をしてきたのかを織り交ぜ、検討してみたい。

第1期:平成元年~平成11年12月ー国際社会の激動とPKO法の成立、憲法調査会設置に向けて 
 元号が昭和から平成へと変わった年以降の数年間は、国際社会が激変した時期として、歴史に刻印されている。
 第1に、平成元(1989)年11月9日、28年に亘って築かれていたベルリンの壁が崩壊し、翌年10月3日、ドイツ統一条約が発効した。この条約により、旧西ドイツが旧東ドイツを吸収併合するという形で、『ドイツ連邦共和国』の再統一がなされた。旧東ドイツで運用されていた社会主義憲法の『ドイツ民主共和国憲法』が廃棄され、旧西ドイツで施行されていた『ドイツ連邦共和国基本法』(ボン基本法)が全土に適用されることになった。
 私は、平成3年の夏にベルリンの壁跡がいまだ生々しく残っている旧西ドイツを訪問、憲法教授らと懇談したが、旧東ドイツへ出張教授をし、西側の憲法体制を教えなければならず、きわめて多忙だと語っていた。なるほど、マインド・コントロールされている人々を解放するためには、多くの専門家の動員が必要であり、体制の変革を成就するには、色んなところで色んな人たちの助力があずかっているのだと、感じ入った次第である。
 第2に、1985年3月にソ連邦の書記長に就任したゴルバチョフが、社会主義体制の行き詰まりから、ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)の標語を掲げ、平成2(1990)年3月には憲法を改正して、複数政党制の容認などの改革を図ったが、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)などがソ連邦からの独立を求め、翌平成3年12月5日、ソ連邦が解体した。ここに1922年12月以来、マルクス・レーニン主義に基づいて維持されてきた社会主義体制が崩壊した。そして同年12月、ソ連邦を形成していた12の共和国(ウクライナ、ベラルーシなど)がそれぞれ独立し、非社会主義体制のもとで、独立国家共同体(CIS)を結成した。
 これら二つの出来事は、国際社会における社会主義体制の衰退を意味した。我が国にあっても、社会主義者の勢力が著しく減退した。かつてはマルクス主義憲法学者が学界で枢要な地位を占め、一定の影響力があったが、平成に入るとその影響力は殆ど見られなくなった。