軍隊に一歩近づいた自衛隊
―されど道なお遠く―

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政策提言委員・元海自自衛艦隊司令官(元海将) 香田洋二

村山総理の自衛隊合憲答弁(平成6年)と55年体制の終焉
 平成期における我が国安全保障上最大の政治的出来事は、村山総理による「自衛隊合憲」答弁であろう。細川、羽田内閣2代の非自民政権が倒れた後、平成6(1994)年6月30日、社会党の村山富市委員長を首班とする自民党、社会党、新党さきがけ連立政権が発足した。政界(党)再編の真っただ中とはいえ、安全保障政策で水と油の如く相容れない政策を掲げてきた自社両党の連立は「何でもありの政界」とはいっても極めて奇妙な鵺(ぬえ)のごとき内閣であった。同年7月20日の衆院本会議代表質問における羽田新生党々首の質問に対し、村山総理の「専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する」との答弁は青天の霹靂であった。その後、「自衛隊合憲」は社会党大会で追認され、自衛隊最高指揮官たる村山総理は晴れ晴れとして同年の海上自衛隊観艦式に観閲官として臨んだ。
 昭和30年の社会党統一以来、自衛隊を憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた憲法に違反すると声高に主張してきた社会党、更には非武装中立を党是としてきた社会党がその憲法解釈を自衛隊合憲へと大きく変更したのである。正に艦乗(ふなの)り言葉の「面舵一杯」の反転であった。ルビコン川を渡ったと評された村山総理の歴史的英断だったが、野党第一党としての骨幹政策を棄てた社会党は多くの支持を失い、翌年の参院選と翌々年の衆院選で大敗し、以後衰退の一途を辿った。
 これは戦後の我が国安全保障関連の政治史上最大の出来事であったというに相応しい。次項以下に米国同時多発テロ(同時多発テロ)を巡る、筆者から観た経緯を記すが、その対応を含め自衛隊運用に新たな道を開くことになった出来事として、国政の場における自衛隊の認知は銘記されるべきものである。

●同時多発テロ以前の世界
・冷戦終了(平成元年)後の世界の安全保障環境
 村山答弁のあった平成6年はベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦終了から5年を経た時点であり、世界の安全保障環境が大きく変化しつつあった時期である。この時期の特徴は次の2点に集約される。
 その第1は、冷戦に勝利した西側陣営の盟主米国を唯一の超大国とする一強時代の到来と、それがもたらす新世界秩序(New World Order)と呼ばれる自由と民主主義を基調とする豊かな世界出現への強い期待が漲ったことである。