私の平成時代の3つの戦争

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元シリア国駐箚特命全権大使 国枝昌樹

 平成時代の30年間は、当初こそ東西冷戦構造が崩壊して社会の一部にはこれで世界規模の緊張が遂に解消したので、これからは平和と安定が訪れるという希望的観測が流れ、やがて来る21世紀がバラ色に輝いて仰ぎ見られたものだった。
 1990年8月2日にイラクのサッダーム・フセイン大統領が隣国クウェートを侵略して占拠する前代未聞の事件が発生すると、その後は堰を切ったように戦争或いは武力紛争が次から次へと発生し、世界の平和と安全に大きな不安を感じさせる時代に入った。それは平成時代に重なる。そして、その時代に私は湾岸危機、コソボ紛争、そしてシリアの内戦という歴史に残る3つの戦争に直接間接に関係することになった。

1. 湾岸危機
 1980年に始まったイラン・イラク戦争は88年にアヤトラ・ホメイニ師の「死よりもつらい決定」として停戦に関する国連安保理決議の受け入れを表明したことでやっと終わった。戦争の形勢はイラク側がやや優勢な状態で終わったと言っても、イラクが得たものは実質的に何もなかった。それよりも、豊富に埋蔵する原油で豊かだった国富を食いつぶして終わった。

「鳥も通わぬバグダッド」
 私は戦争が終わった翌年にバグダッドに赴任した。
 戦争前には数千人ほどいた在留邦人が、私が家族を連れてイラクに着くとその規模は300人ほどにまで縮小していた。その頃、イラクについて日本国内の関心はそれほど低かった。現地では「鳥も通わぬバグダッド」と自嘲的に語られていた。
 イラクは実質的にバアス党一党支配であり、当時、党と軍を掌握するサッダーム・フセイン大統領の独裁体制は徹底していた。人々は常に下を向いて生活していた。極度に緊張した社会がそこにあった。
 同大統領は軍と党に恩賞を手厚く配布することで支持体制を固めていたが、イラン・イラク戦争を経て国庫は干上がり、戦死した兵士の家族に対する補償、傷病兵たちへの支援はままならない。また、戦争が終わると、戦時中に肥大化した軍をスリム化する必要があったが、除隊させるにも兵士たちを吸収するだけの経済力が社会になければならない。だが、経済は疲弊していた。イラク政府は社会不安の要素を増殖させないで過剰な兵士を除隊させるのに苦慮していた。
 サッダーム・フセイン大統領の認識には、イラクが犠牲を払ってイランと戦うことによりイランの脅威がクウェートとサウジアラビアに及ぶことを阻止した、だからクウェート政府とサウジアラビア政府はイラク政府に対する戦争中の巨額の貸付を棒引きにして当然であるということがあった。