はじめに
近年、中国はアジア・太平洋地域のみならず、アフリカにおいても経済的な進出を強めている。2013年に提唱し、2016年に設立したアジアインフラ投資銀行(AIIB)や、2014年に打ち出した「一帯一路」構想は、その象徴であろう。中国の経済的な構想、政策は、軍事政策とも結びついている。スリランカやジブチのように、中国は多額の借款をしている国に軍事施設を建設し、人民解放軍はその施設を利用している。近年、中国の借款の結果、借金漬けに陥ってしまう「債務の罠」の危険性が指摘されているが、中国の経済進出が、その安全保障政策と結びついていることは言うまでもない。本論文は、そのような昨今の中国による経済・安全保障面での動きを踏まえ、日本がかつて採用した総合安全保障戦略を再考することが目的である。
総合安全保障戦略は、「経済協力、文化外交等必要な外交努力を強化して、総合的に我が国の安全を図ろうとするもの」であり、裴 廷鎬(ぺじょんほ)が指摘するように石油危機以降の国際環境の変化に対応し、経済安全保障と責任分担を行おうとしたものだった。他方、中西寛は総合安全保障を「毀誉褒貶(きよほうへん)の多い言葉」であるとするなど、評価は様々である。
総合安全保障は経済安全保障等の「総合」の部分に力点があり、軍事など、狭義の安全保障が軽視されているとする意見がある。加えて、総合安全保障戦略と当時の安全保障論の動向との同時代性を指摘する遠藤乾の研究がある。
このように総合安全保障に関する評価は様々であるが、ここでは総合安全保障戦略がそもそもどういうものであったのかを再確認することを目的としている。まず、総合安全保障戦略が登場した背景を説明したうえで、近年の中国の進出に対する日本の対抗策を考える上で、総合安全保障戦略は参考とすることが出来よう。
1、日本における総合安全保障戦略
日本における総合安全保障概念は、1957(昭和32)年の「国防の基本方針」から始まっていたとする意見がある。日本は、経済力を国家存立の基盤とする通商国家であるため、弱い軍事力を非軍事的手段で埋め合わせることにより、国家の安全保障を確立するというものである。
1970年代に入ると、既存の安全保障論の限界を指摘し、安全保障の射程を広げるべきとする議論が起こった。例えば、バリー・ブサン(Barry Busan)は、その著書の中で、貧困、開発、環境をも安全保障の射程に含める必要性を主張した。