日本人の世界認識

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JFSS顧問・東京大学名誉教授 平川祐弘

 私たち日本人の世界認識が当を得たものか、手前勝手なものか、どうか、歴史的に検証し、将来に備えたい。
 第二次世界大戦当時と比べて、日本人の世界認識は進んだ――私たちは漠然とそう信じている。だが私たちの外国知識ははたして時間の推移とともに進むものなのか。二〇二〇年代の日本人の世界認識は、一九四〇年代当時より正しくなっているのか。そもそも昭和初期日本の指導者は、明治の指導者と比べて、世界の中の日本をより正確に把握していたと言えるのか。その点から検証を始めたい。

戦前日本人の世界認識
 明治日本の建設者たちは、長州藩出身にせよ、薩摩藩出身にせよ、西洋事情を大局的によく把握していた。それというのも、外国事情を知るには、なにも学校で書物を通して習うことだけが学習ではない。維新の志士たちは、下関で四国連合艦隊と交戦して敗れ、薩英戦争で鹿児島の町を焼き払われたが、そうした戦争体験やそれに引き続く外交処理の体験を通じても、西洋の何であるかを身にしみて知った。そのようにして身に覚えた体験があったからこそ、後に元老となった人々は、明治・大正を通じて対外政策において慎重で、新聞雑誌の「白閥打破」などの威勢のいい主張に安直に与することはなかったのである。
 日本人の西洋知識や西洋体験は、明治時代に比べて大正、昭和と年を追うごとに進んできたかに見える。私たちは漠然と進歩したと錯覚している。教育の普及により国民全体の外国知識は確かに増えはした。しかし英語でoligarchy 寡頭(かとう)政治と呼ばれた明治のきわめて限られた少数の指導者は、後に「維新の元勲」などと呼ばれるが、一面では徳川時代以来の伝統的な価値観に従って育てられた人々であったけれども、同時に他面では知欧派という面も持っていた。実はそのような要所にある人の世界認識こそが決定的に大切なのである。
 一体、学校教育であるとか翻訳書であるとかを通して入ってくる外国知識は、必ずしも生きた有効な知識ではない。その種の知識はたとえていえば日本語文章にまじっているカタカナのような西洋知識である。それに比べると、大久保利通にせよ、伊藤博文にせよ、また幕府側の勝海舟にせよ、幕末維新の活動家たちは直接外国人と接して鋭い勘を働かせている。外国渡航の体験についていうなら、勝海舟は一八六〇年、咸臨丸でサンフランシスコへ渡っているし、伊藤博文も一八六三年にひそかにイギリスへ渡っている。また明治新政府は明治四年には岩倉具視以下の政府首脳の大半を米欧回覧に派遣している。