普遍信仰の崩壊
私はふつう学術論文を書く時、註というものを入れる。なぜ註を入れるかといえば、読んでくれた人がその箇所に疑問を持ってそこから調べやすいように本と頁数を書くのである。すぐ分かるようにこの行為は理性的なものだ。
だが現実はこうとばかりは言えない。権威のある学者の本や論文をこれだけ勉強しているのだと、ひけらかすために入れる人もいる。就職のための業績が欲しくて、註を増やし論文1本を2本に膨らます人だっているのだ。さらには論文自体を弟子に書かせて取ってしまう猛者の「大先生」までいる。ここまで来ると、「論文」は学者の業績になんかならない。
要するに実践理性はわりと看板で、「パブリック」(人の為に何かする)と、その向う側にある良心(みんなで良くなろうとする心)がないと、看板なんかどんどん非理性的になってしまうのだ。でも以前には、看板を支える柱があったから何とかなったものだった。それがあの懐かしい「普遍」である。
むかし私などは、「普遍の学に貢献するために学問するのだ」と、本気で信じていた頃があった。これは明治以来のドイツ哲学の教育体系がもたらしたもので、こういうことを近代化の推進力にしてみんながそれぞれの生業に励んだのだった。
この柱が危なくなったのが、21世紀に入ってすぐのことだったと思う。
2002年に、東京大学社会科学研究所の会議室に集まった政治思想の専門家たち(苅部直・関口正司・都築勉・松田宏一郎・米原謙・和田守・平石直昭)が、「日本における日本政治思想研究の現状と課題」という題で、大学の授業で何をテキストにするかの座談会をしていた。(政治思想学会『政治思想研究』第二号、2002年5月)。
そこで都築勉氏が次のように語っている。
「それでさっき、松田さんのお話を伺っていて思ったのは、バジョットなどは説明能力が高いのではないか。時代を超えて、説明能力を持っているから、学生にとってもそれなりにわかるところはわかる。それがあるので、日本の古典の思想というのは、もちろん私は古いところといってもせいぜい福澤ですが、これは非常に浸透させるのが難しいです。でも中江兆民なんかは全然だめですからね(笑)。『三粋人経綸問答』は翻訳のほうでしか読めないですから。強いていえば、私でも読めるのは宣長と福澤です」とある。
今だから眺望主義的に言えるのだが、「普遍」信仰、敢えて信仰といおう、これが吹き飛んでしまい、何を読んでも特殊になってしまったのである。