令和という時代に想う

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顧問・元カナダ国駐箚特命全権大使 石川 薫

1.昭和と令和、二つの東京オリンピック
 「東京オリンピック・パラリンピック2020」まで1年を切る中、オリンピック期間中の猛暑対策をどうしようかと鳩首凝議する様子などが報じられている。猛暑の時期の開催が決められたのは、アメリカのプロスポーツ放映と重ならない時期にしたいとのアメリカのテレビ局の思惑と放映権収入獲得のIOCの思惑が一致したからだと報じられたりもしたが、思い返せば、1964年の東京オリンピックはまさに高温多湿の真夏を避けるために10月に開催されたのであった。10日の開会式の日、実家の2階のベランダからジェット機が飛んで行くのが見えた。当時の東京にはビルも少なく、郊外からでも青い空と美しい五輪が見えたのが懐かしい中学生時代の思い出となっている。
 夏と言えば、昭和20年8月15日には生まれていなかったので実体験はしていない。敗色が濃くなっていた頃、機銃掃射してくるアメリカの戦闘機のパイロットの金髪が見えたと湘南に住んでいた親戚が話していたのを思い出す。
 昭和20年9月2日から再出発した日本が何とかサンフランシスコ平和条約締結にこぎつけ、分割占領と国家の分裂という対価を払って独立したドイツ連邦共和国に3年遅れて独立を回復し(もっともベルリンの法的地位はドイツ統一まで戦勝国の軍事占領下だったが)、昭和27年に漸くソ連など一部の国を除く連合国との戦争状態が終わった。世界の殆どの国が日本との通商航海条約などの条約関係を破棄していた中で、日本の国際社会との関係再構築への獅子奮迅の努力がここから始まり、昭和27年8月には世界銀行とIMFに加盟し、昭和30年にはアメリカの後ろ盾で貿易と関税一般協定GATTにも加盟できた。ところが、英仏をはじめとするヨーロッパ諸国はこぞってGATT35条(仲間外れ条項)を適用、通商航海条約再締結どころではなくなってしまった。アメリカとの間では昭和28年4月2日に日米友好通商航海条約が調印されたが、その5年後の昭和32年に至っても日本と通商航海条約を締結していた国は15ヵ国しかなかった。
 立ちはだかったのは日本を許さなかった英国である。ビルマ戦線、戦争捕虜、バーマスター叙勲者に代表される英国の対日感情を示す一例として、長い間ロンドンで日本人に家を貸してくれたのはユダヤ人だけであったのだが、このことはあまり知られていない。日本との2国間条約交渉開始にもなかなか応じなかった英国だったが、昭和30年のGATT35条適用の数ヵ月後になんとか通商航海条約の交渉開始に応じた。しかし交渉は難航し、対日数量制限という明白なGATT違反を認めるという毒薬を飲んで漸く妥結にこぎつけたのは7年後の昭和37年のことであった。