イラン・イラク戦争と日本
―1987年のペルシャ湾安全航行問題を見直す―

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主任研究員 加藤博章

 2019(令和元)年6月13日、ホルムズ海峡を航行中のタンカー2隻が、何者かによる攻撃を受け、船体に大きな損傷を受けた。日本の海運会社(国華産業)が所有している船舶が攻撃を受けたということと、イラン訪問中の安倍首相とイランの最高指導者ハメネイ師の会談が同日に行われたこともあり、日本でもこの事件は大きく報道された。その後、米国はホルムズ海峡警備の為に、有志連合(Coalition)の結成を各国に呼びかけ、日本にも協力を求めている。ホルムズ海峡警備に対する日本の協力について、1987年のペルシャ湾安全航行問題と関連付けて論じる識者もおり1、日本国内でもこの問題は議論となった。
 そもそも、1987年のペルシャ湾安全航行問題とはどのようなものだったのだろうか。1980年に勃発したイラン・イラク戦争において、イランとイラクは互いの戦争継続能力を奪おうと、ペルシャ湾を航行するタンカーへのミサイル攻撃や、タンカーの航行ルート上に機雷を敷設した。両国の攻撃は、自国の船舶だけでなく、付近を航行する他国の船舶にも及び、米国や日本なども影響を受けていた。こうした中、1987年に、米国は、イランを牽制する為にペルシャ湾に艦船を派遣するなど、ペルシャ湾地域への関与を強めた。その際、米国政府は、ペルシャ湾の安全航行のため、戦争でイラクとイランが敷設した機雷除去のための掃海艇の派遣要請を、日本を始めとする各国に出した。米国の要請をきっかけとして、日本はペルシャ湾の安全航行確保に対する貢献策を策定した。この問題を指して、「ペルシャ湾安全航行問題」という。
 ペルシャ湾安全航行問題については、当時官房長官であった後藤田正晴の反対によって、掃海艇派遣が実現しなかったという事実が、エピソードとして言及されている2。その一方で、掃海艇派遣の政策決定過程を検討した加藤博章の研究3やペルシャ湾安全航行問題の日米関係における位置付けを検討した山口航の研究4、そしてペルシャ湾の航路安全確保に関する活動を研究した金澤裕之5の研究が存在する。
 本稿では、この問題を改めて検討し、ホルムズ海峡問題における日本の対応及び、今後の国際貢献を考える資となれば幸いである。

1. イラン・イラク戦争を巡る国際関係
 イラン・イラク戦争は、1980年9月にイラクの奇襲によって開始され、1988年8月に終結した。長期に渡る戦争は、両国以外にも拡大していった。1984年から、両国は、互いの油田や石油積出港への空爆、ペルシャ湾を航行するタンカーへの対艦ミサイル攻撃、機雷の敷設を行った。両国にとって、互いの石油輸出を妨害することは、相手の戦争遂行能力を低下させる絶好の戦略であった6