「令和」におけるエリート再生への期待
―幕末武士から近代の指導者たちへと顧みて―

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東京大学名誉教授 芳賀 徹

1 吉田茂と英語
 今、平川君のお話の中に吉田茂は喋る英語が上手じゃなかったという話が出てきましが、私も吉田茂と奥さんの雪子さんのことを、いま自分の本の最後の章に書いております。
 吉田茂夫人雪子について、ある追悼集を読んでおりましたら、こういう話が出てきました。吉田茂が1936(昭和11)年から1938年まで3年間、最後の大使勤務として、ロンドンに駐在していた頃のことです。その時、部下に加瀬俊一さんという方がおられました。後に、ジャーナリズムで活躍される方です。加瀬さんがある時、吉田茂に向かって、「閣下は大使館から奥様に電話をなさる時、年中英語を使っておられるけど、それはどうしてですか?」と訊いたそうです。吉田茂はユーモアを込めて「私の英語はとても不十分で下手くそだから、家内と喧嘩するにはそれで丁度良い。日本語で喋ったら、とんでもない喧嘩になっちゃう」と言ったとのことです。吉田茂も自覚はしていたんですね。
 英語力では雪子さんにはとても敵いませんでした。雪子さんは10歳前の頃から、父上の特命全権公使牧野伸顕についてイタリアに行き、それからすぐにウィーンに移って、日露戦争後まで7、8年を彼地で過ごしていました。その十代の少女時代に英語、ドイツ語を勉強し、やがてフランス語も習いました。雪子さんの方がはるかに英語は流暢でした。雪子さんは吉田茂よりも11歳年下です。結婚前の写真が何枚かありますが、大変な美少女でした。整った顔立ちで、語学が良く出来るまさに才色兼備と言うにふさわしい令嬢でした。生まれたのが1889(明治22)年5月、亡くなったのが1941(昭和16)年10月です。52年の短い生涯でした。イギリスでの最後の大使勤務を終え、吉田一家が帰国したのが1939(昭和14)年。間もなく1941年10月、太平洋戦争が始まる2月前に雪子夫人は乳癌から喉頭癌に転移して、戦争開始を知らずに東京で亡くなりました。雪子さんにとって、太平洋戦争が始まるのを知らないで死んだということは、救いだったと思います。
 この人は美しいだけではなく非常に繊細な方で、ローマでイタリア語を喋り、ウィーンでドイツ語を喋り、ウィーンにいる間に英語学校に通って、語学の勉強をしたのですね。そして、英国の文学にも通じておりました。シェークスピアや英語の詩をいつも読んでいました。最後には、英語で回想記を書いています。
 1936(昭和11)年から1937年までの2年間、大使夫人としてのロンドン暮らしを回想して、1938年にロンドンで、英語で『グローヴナースクエアの木の葉の囁き(Whispering Leaves in Grosvenor Square, 1936-1937)』という非常に良い本を出版しました。