改元を機に考える血脈、天皇、そして日本

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拓殖大学学事顧問 渡辺利夫

 屋山先生、平川先生には、今でも様々な場でご意見をお伺いする機会があります。また、芳賀先生とは、以前、韓国にご同行したことがあります。当時の韓国ではウイスキーをビールで割ったʻ爆弾ʼ と呼ばれる飲み物が流行しており、これを飲みながら3 日3 晩過ごした思い出があります。
 
ある家族の肖像
 本日の話の導入として、レジュメに掲載されているセピア色の写真をご覧ください。私が生まれ育ったのは山梨県甲府市です。甲府市は峻険な山々で囲まれた山国の街です。私の生家は既に解体してしまいましたが、解体に際して家の周りを整理していたところ、この1 枚の写真を発見しました。
 写真は保存状態が良く、写真を撮影した写真館の名前まで刻印されています。この写真の左側の赤ん坊が私の母だと長兄から聞かされ、胸を突かれるような思いがしました。中央の軍服姿の男性が私の母方の祖父です。この写真は祖父が日露戦争に出征する以前に撮影したことが分かっています。制服についている勲章は、調べてみたところ日清戦争に出征した際の勲章です。祖父の左側で幼児を抱えているのが私の祖母で、両脇に立っている女の子が母の姉たちです。日露戦争に出征した時点で私の母は出生していたことが分かります。母は5 人の子供を産み育て、その末子が私になります。
 
出生という宿命
 日清・日露戦争といえば、日本の興廃を決した大変重要な戦争でありますが、そうは言っても遥かに遠い昔の戦争で、現在の私たちにどう関わっているかについて忘れ去られているような気がします。しかし、この写真を眺めていると、これらの戦争も遠い昔の話ではないという感じがします。皆様の目の前で話をしているこの私のたった3 代前の血脈の写真だからです。
 この写真を見るたびに、私は、私という存在が私という個人のものであるよりも、脈々とつながる血脈の中を今生きているのだと深く実感するのであります。私どもの肉体・性差・身体付き・能力といった様々な属性が遺伝子の情報伝達メカニズムを通じて世代間で継承されていくものです。私どもは何かにつけて、迷い、悩み、苦しむ。逆に何かにつけて、笑い、喜び、楽しむ。しかし、我々の両親も、その父母も、その祖父母も、そのまた祖先も、私どもと同じように迷ったり、悩んだり、苦しんだり、笑ったり、喜んだり、幸せを感じていたのではないでしょうか。