「地球儀を俯瞰する外交」の現場で考えたこと
―ようやく緒に就いた日本外交のグローバル化―

.

顧問・元ブラジル国駐箚特命全権大使 島内 憲

 数年前より「地球儀を俯瞰する外交」という言葉を新聞等で時折見かけるようになった。安倍政権の外交の柱の1つだからだ。筆者は、外務省を退職後、同省参与として19ヵ国を訪問し、ささやかながら現場で地球儀を俯瞰する外交のお手伝いをした。
 以下では、参与(昨年退任)としての5年間の経験を中心に45年間の外交官人生で目の当たりにしたことや考えたことを紹介したい。また、その中で、近年の中国の存在感の増大と日本外交の在り方についても考えてみたい。
 
地球儀を俯瞰する外交の背景 ―周回遅れだった日本外交
 外務省の在外語学研修でスペインに2年間留学した関係で、外務省の現役時代中、本省、在外を通じて中南米関係の仕事に関わることが多かった。その一方、米国(2回)、英国、香港で勤務する機会もあり、個人的には充実感の高い外交官人生だった。ただ、その中で、外務省、そして、日本が持てる力を十分発揮していないのではないかという苛立ちを感じることも時折あった。
 その苛立ちの原因は、日本がグローバル・プレヤーを標榜しながら、実際の外交活動、特に首脳外交が地域的、分野的に十分な広がりを持っていなかったことにある。日本外交は長年、周回遅れだったのである。このことが特に目についたのは、米ソ冷戦の終結後である。第二次世界大戦から1980年代の世界情勢は、米ソ対立を軸として回っていた。特に、米国の前方展開戦略で中核的役割を果たしていた日本は、米国の外交戦略を常に意識しながら外交を行っていた。但し、当時あった(そして今でもある)「対米追随」との批判は全く当たらない。米国と目的を共有するのは同盟国として当然のことだったし、それが日本自身の国益だからだ。
 1991年のソ連崩壊を受けて、日本は、新しい、より厳しい国際環境に直面することになった。米国の戦略的利益に関わる問題については、引き続き同国と緊密に連携しつつも、世界を相手に我が国独自の国益を追求しなければならない場面が多くなった。
 しかし、日本外交は、国内事情により、世界の急速な変化に十分ついて行けなかった。 第一次湾岸戦争で130億ドルという巨額の資金的拠出をしながら、自衛隊の参加等人的貢献ができなかったため国際社会の評価を得ることができなかった。国内では自衛隊の国連平和維持活動(PKO)参加に対して、軍国主義復活と結びつける一部の人々から猛烈な反対があった。PKO法案の国会審議における野党の「牛歩戦術」で、1992年の地球サミット(於リオ・デ・ジャネイロ)への宮沢総理の出席をドタキャンせざるを得ないこともあった。