元寇と日露戦争の逸話
最近、伴野朗の歴史小説『元寇』(1993年、講談社刊)を読んで、13世紀後半に日本を襲った元寇(文永・弘安の役)にベトナムが深くかかわっていたことを知り、大いに興味を惹かれた。
元の世祖フビライは高麗を服属させたのち、南宋の征服に狙いを定め、その資金源となっている日宋貿易の停止と元王朝への朝貢使の派遣を日本の北条政権に要求する。そのため、元はたびたび日本に外交使節を送るが北条政権はこれを拒否して時に元の使者を捕縛し斬刑に処している。1274年の文永の役の5年後に南宋は滅亡するが、フビライは度重なる日本の外交儀礼を失した対応に怒り、1281年に弘安の役を起こす。
元軍兵力の大半は高麗人と旧南宋人であり、日本襲撃で彼らが何万人死のうと元王朝にとっては痛くも痒くもなく、寧ろその反元武装勢力を削ぐための「棄民政策」だったのではないかと著者は言う。
問題は弘安の役のあとで、フビライは3度目の日本攻撃に執念を燃やすが、その一方で、元はベトナム征服に手を焼き、兵力を失い国家の財力を衰微させてしまう。ベトナム側は英雄チャン・フンダオ将軍の活躍で3度に亘る元軍の侵攻をすべて撃退している。フビライは側近の強い進言でついに更なる日本攻撃を断念せざるを得なかったという。何とも興味深い話である。
もう1つ、私が自著『ベトナムの素顔』(2015年、宝島社刊)の中で紹介した話だが、日露戦争時の日本海海戦(1905年)でバルチック艦隊が壊滅した背景にベトナム革命勢力による協力があったとされる。バルチック艦隊はインド洋を回って日本海に向かう途次、補給目的でベトナムのカムラン港に寄港するが、フランス植民地からの解放を目指し日本に心を寄せるベトナム維新会のメンバーが港湾労働者の中に紛れ込み、泥炭と偽ってただの泥を燃料タンクに補給したらしい。このため、多くのロシア艦船がエンジントラブルを起こし、日本海での作戦行動に大いに支障をきたしたという。
これは、ベトナム在勤中にこの国の歴史研究者から聞かされた話だが、日本の防衛研究所にも関連資料があるらしいから、事実かと思われる。歴史は多角的に見なければ真実は分からないという事例の1つである。
さて、現代の日中関係を考える時、中国とベトナムの間で、また日本とベトナムの間で何が起こっているのかを考察してみるのも無駄ではないように思う。こうした考察から今後の日中関係や日越関係の行方も見えてくるかも知れない。本稿はそうした試みの1つである。