一層の奮起必要の憲法改正 ―中曽根元首相の「遺言」
―「中山ルール」の弊害―

.

政策提言委員・産経新聞正論調査室長 有元隆志

 101歳で亡くなった中曽根康弘元首相が最後まで意欲を見せていたのが憲法改正だった。超党派の新憲法制定議員連盟の会長を務め、平成29年5月3日の憲法施行70周年の節目を控えた同年5月2日の大会には、99歳になるのを前に挨拶に立ち、「国民が自らつくり上げる初めての憲法を目指し、一層の奮起をお願いする」と述べた。だが、改憲の機運は盛り上がるどころか、まったく見通しが見えない状態となっている。
 安倍晋三首相(自民党総裁)はこの大会に現職首相としては初めて出席し、「政治とは結果だ。評論家、学者ではない。立派なことを言うことに安住の地を求めてはいけない。結果を出すために汗を流さなくてはいけない」と強調した。さらに「自民党は圧倒的な第1党として、現実的かつ具体的な議論を憲法審査会においてリードしていく覚悟だ。足元の政局や目先の政治闘争ばかりにとらわれ、憲法論議が疎かになることがあってはならない。憲法改正を党是に掲げてきた自民党の歴史的な使命ではないか」との決意を表明した。
 
自主憲法を訴えた中曽根元首相
 憲法改正をめぐり、中曽根元首相と安倍首相は世代を超えて連携したことがある。自民党は平成17年と24年の2度、条文の形で憲法改正案をまとめた。前文を担当したのが中曽根元首相だった。戦争を経験し、焦土となった日本を立て直すべく政治への道を進んだ中曽根氏。若き日の中曽根氏が目指したのは日本の独立であり、憲法改正であった。中曽根氏は占領期に連合国軍総司令部(GHQ)が短期間でつくった現憲法の前文は「どこの国の憲法かわからない」との批判が強いことを意識し、「自主憲法」を強く訴えた。
 冒頭に「アジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々」との文学的表現で、末尾では「自ら日本国民の名に於いて、この憲法を制定する」と謳いあげた。当時、自民党幹事長代理だった安倍首相も前文作成に関わったのだった。
 安倍首相も触れたように自民党は昭和30年の結党時から憲法改正を党是とした。鳩山一郎初代総裁時代の31年4月には党憲法調査会が自衛のための軍備保持の必要性などを挙げた中間報告をまとめた。しかし、安倍首相の祖父にあたる岸信介政権下での日米安全保障条約改定をめぐる「安保闘争」により、岸氏が退陣してからは、経済成長優先の路線をとり、条文化の形とした憲法草案の発表は平成17年が初めてで、実に結党以来、半世紀を費やした。
 その後、6年半あまり経過した平成24年4月にも自民党は新たな憲法改正草案をまとめた。このとき自民党は野党に転落しており、政権奪還に向け当時の民主党政権との対立軸を鮮明にした。