芳賀徹追悼の辞

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顧問・東京大学名誉教授 平川祐弘

 夏風や汽笛那須野に響きけり
 
 これが山形から東京へ転校してきた芳賀徹の俳句でした。昭和十六年、その小学校四年以来のつきあいである君と別れるに際し、深い恩恵を受けた者として謹みて追悼の辞を述べさせていただきます。
 令和二年二月二十日、私どもの敬愛する芳賀徹君は子や孫に見守られ、草葉の蔭に去られました。まことに哀悼の情に堪えません。知友一同、ここに恭しく敬弔の誠を捧げ、君の高徳を偲ぶものであります。君の生涯八十八年、見事でありました。学問に豊かに芸術に敏く、君は第一級の人文学者でありました。人柄は優しく、優しいの「優」の字は人偏に憂いと書く。人の憂いに感じる心が優しさだと学生のころから申しました。
 芳賀徹が詩歌の森を散策しながら語ると心ある読者はその文章に納得し感じ入りました。それは芳賀が作者の気持に共感し上手に解き明かすからです。東京大学の教室でもよく下調べし一旦自己嚢中のものとした上での語りは講演に血が通い、座談は名手の即興演奏の如く、内外の学生も、学会の聴衆も、また美智子陛下も、芳賀教授の話に耳を傾けられました。芳賀さんは召人として詠まれました。
 
 子も孫もきそひのぼりし泰山木
 暮れゆく空に静もりて咲く
 
 芳賀青年の大きな顔を母親たちは「大仏様」といいました。広く明るい薔薇色の肌にはいつも春風が駘蕩していました。大人物たる所以は、留学するやパリのまだ無名の画家、今井俊満やサム・フランシスと親しくなり、デュテュイからは岳父マチスのデッサンをもらい、アンフォルメルの評論家タピエとはフランス語の共著『日本における伝統と前衛』をイタリアの書店から出版したことでもわかります。その豪華本がフィレンツェの目抜き通りの店頭に飾られたのを見たときは羨ましく思いました。そしてそのような若き日の絵描きとの昼夜を分かたぬ交流が、芳賀徹の後半生の『絵画の領分』(朝日選書、1984年)、『藝術の国日本』(角川書店、2010年)等の著書に豊かに美しく結実し、読者に絵を見る楽しみ、詩を読む喜びを教え、若き才能の発掘育成に通じたのだと思います。
 一九六一年、島田謹二先生は軍人廣瀬武夫を学問の対象とする大胆な方向転換で明治研究に新天地を開きましたが、芳賀徹はその年、島田教授還暦記念論文集に《明治初期一知識人の西洋体験――久米邦武の『米欧回覧実記』》を書くことで、岩倉使節団を見る眼を一変させ、学問の海に堂々と船出しました。ジャンセン教授に認められ、三十代末の芳賀一家はプリンストンに招かれ、以後は日本側からも英語で発信する二本足の学者として学問の王道を進みました。