「安保反対」で騒然とした一九六〇年の晩春、私は大学院生だった。同じ大学の国史学科の女子学生が一人死んだと聞いた時、これは大ごとになる、と感じた。その当時の個人的な思い出と、日米安保条約について、わが国がかつて結んだ同盟や条約の中で、この条約にはどんな特色があるのか、比較文化史的にその背景を一考し将来に備えたい。微視的な身辺の観察と巨視的な歴史の考察とを織り交ぜた随想で私感に過ぎない。
日本が結んだ同盟の中で
初めに外交史的なスケッチの中にこの安保条約を位置づけたい。
日本がかつて結んだ、重要な同盟や条約の中で、日米安保条約は二十一世紀においていかなる意味を持つのか。その条約の意味合いは時の流れと共に変化してきた。その際、同盟や条約は、いかなる国を相手に結ばれたのか。その背後に潜む心理上の問題にも言及したい。なおこの相手とは条約締結の当事者という意味での相手国ではない。二国間で結ばれる同盟や条約には、表だって名指しせずとも、第三国という相手がある。alliance(同盟)やtreaty(条約)は仮想敵国とはいわずとも、その相手の国を意識して結ばれるものだからである。
一九〇二(明治三十五)年一月に締結された日英同盟はロシアの脅威に備えてであった。二十年後、ワシントン会議の結果、日英同盟が終了するや、日本は同盟国を失った。そのため私たちの国は、クローデル駐日フランス大使が指摘した如く、国際間を漂流する孤独な帝国となってしまった。国民一般に世界の中の日本についてその行くべき方向について自覚がなく、国家上層部に確固たる方針がないとき、国内の一部勢力が抬頭して声をあげやすい。昭和初年の代表的なメディアは新聞だが、それが大きなメガホンとなり、軍部積極分子の主導で日本は、満洲事変をきっかけに明治以来の国際協調路線から逸脱し、国際聯盟を脱退、大陸で戦線を拡大、中国ナショナリズムの泥沼にはまりこみ、撤兵もできず、一九四〇(昭和十五)年九月、独伊と三国同盟を結んだ。それはアングロ・サクソン本位の世界秩序に対する挑戦であったから、必然的に米英と戦争するに至った。
第二次大戦中、日本は世界を敵にまわすつもりはなかったが、一九四五年夏には周囲は米・ソ・中とも敵国になっていた。敗戦後、日本は二十世紀世界の最大の大国である米国の占領下、ついで保護下にはいったが、それは米国が主要交戦国であったという外的事情によって決定されたのであり、日本側の選択とはいいがたいが、しかし旧敵国の中では米国が良いという感情が、敗戦後の日本国民の間にひろまったことも忘れてはならない。