あの戦争を議論するための いくつかの新視点

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日本近現代史研究家 渡辺惣樹

日本はもっと早く降伏できたのか
 戦前の政治家も外交に携わった実務官僚もそれぞれの立場でよく頑張っていた。彼らは間違いも犯した。我々は、後のちの歴史を知っている立場にいるだけに、過去の人物に対する批評は辛くなりがちである。歴史家や評論家の中には、事件のあった同時代ではとてもできそうにないことを「やるべきだった」と主張する者さえいる。彼らは自らが優越的立ち位置にいることを忘れている。
 たとえば、先の戦争ではもっと早く降伏すべきだったという主張がある。もちろん無条件降伏を受け入れれば降伏できたが、日本の将来が全く分からないままでそんなことは出来るはずもない。当時の日本の為政者は、歴史の常識として第一次世界大戦で敗戦国となったドイツやオーストリアの悲劇を知っていた。彼らからすればわずか四半世紀前の出来事である。現代に生きるものが1990 年代半ばの出来事をよく覚えているのと同じ感覚に近いはずである。
 第一次世界大戦はドイツの条件付き休戦受諾で実質終了した(1918年11月11日)。しかし、1919年初めから始まったパリ講和会議では、ウッドロー・ウィルソン大統領はドイツへの休戦条件(懲罰的な講和にはしない)を守らなかった。ドイツはすべての植民地だけでなく領土の一部も奪われた上に、国家としての支払い能力をはるかに超える賠償金を支払わされることになった。ベルサイユ条約批准時にはその賠償額さえ決定していなかった。ドイツ代表ヘルマン・ミューラー外相は、戦争の責任は全てドイツにあるとする規定(同条約231条:戦争責任条項)にも、懲罰的賠償にも抗議した。「取り上げられるドイツ植民地には金銭的価値がある。賠償額の算定に組み入れて欲しい」と主張もしたが一顧だにされなかった。
 なぜ、これほど出鱈目な条約にミューラーは署名せざるを得なかったのか。国民が次々に餓死していたからである。ウィンストン・チャーチル(海軍大臣)が戦い勃発と同時に実施したドイツ港湾封鎖を英国は休戦後も止めなかった。ドイツに屈辱的条約を飲ませるためであった。食糧供給はブリュッセル協定(1919年3月14日)で漸く許されたが実際に食糧が届くのは遅れ餓死者は増えていた。ドイツ各地では共産主義者による工作も活発化しており、日が経てば経つほど、ドイツ国民の苦しみは増すのである。「時」は、ミューラーに味方していなかった。調印後ホテルに戻ったミューラーは部屋に入るなり卒倒した。
 調印の日は敢えて6月28日が選ばれていた。