今後の日米同盟のあり方

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顧問・前統合幕僚長 河野克俊

はじめに
 1960年に岸信介総理によって日米安全保障条約(以下、日米安保条約)が改定されて今年で60年である。所謂60年安保闘争は「安保反対」の大合唱の波に国会周辺は包まれたが、まさに岸総理は体を張って安保改定を断行された。当時の反対運動のリーダーとされていた方々の述懐によると殆どの人が安保改定の内容を知らなかったということである。時代のある種のムード・雰囲気が60安保闘争の原動力であったのだ。
 改定から20年が経ち日米安保条約が定着したと思われる80年代においても、軍事的意味合いの強い「日米同盟」という言葉を敬遠する雰囲気が残っており、時の鈴木善幸総理は「日米同盟」に軍事的意味合いはないと述べ、日米関係を悪化させた。
 その後年月を経て今や日米安保条約に基づく「日米同盟」という言葉も幅広く国民に受け入れられ、「日米同盟」に軍事的意味合いがないと考える人は恐らく殆どいないと思われる。しかし、19世紀の英国首相パーマストンが述べたように「国家には永遠の友人もなければ、永遠の敵もなく、あるのは永遠の国益である」は同盟の本質を突いており、今後の日米安保の在り方も我が国の国益を踏まえて考察していかなければならない。
 日米安保条約は、戦後の我が国の安全保障に大きく貢献し、地域の平和と安定にとっても不可欠のものであったことはもはや定着した見方になっている。一方で、日米安保条約を取り巻く環境が大きく変化したことも事実であり、このことを踏まえ今後の日米安保の在り方を考える時期に来ていると思う。同盟とは放っておいてよいものではなく、信頼性の維持・向上のためには双方の不断の努力が必要なのである。
 
1 日米安保条約締結の経緯
 1960年の岸総理による日米安保条約改定に先立つこと9年前の1951年に、吉田茂総理はサンフランシスコ講和条約締結後、近くの陸軍兵舎に向かい日米安保条約を締結した。サンフランシスコ講和条約では吉田総理以下日本代表団がサインしたが、日米安保条約は吉田総理ただ一人がサインした。吉田総理はその責任を一身に背負う覚悟だったとされている。
 当時は冷戦の最中であり、ソ連の台頭、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発等という厳しい情勢下にあったため、米国とりわけ国防総省は米軍の日本からの撤退に繋がりかねない日本の早期の独立・主権回復に否定的であったとされている。一方、早期の独立・主権回復を強く望んでいた吉田総理としても独立・主権回復後は経済復興に集中すべきであり、軍事力の保有は当面無理という判断であった。