戦略なき日本政府の竹島政策と 島根県の対応

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拓殖大学教授 下條正男

 竹島問題は1952年1月18日、韓国の李承晩大統領が公海上に「隣接海洋に対する主権宣言」(以下、「李承晩ライン」)を設定し、その中に竹島を含めた時から始まる。それは日韓の国交正常化交渉の本会談が開催される10日前、「サンフランシスコ平和条約」が発効して、敗戦国の日本が国際社会に復帰する4月28日を前にしてであった。
 李承晩大統領は何故、「李承晩ライン」を宣言したのか。関係者の一人であった兪鎮午によると、大統領は「韓国に残された日本及び日本人帰属財産は、韓国の全財産の80~90パーセントに当たり、それらが日本側に持ち出されれば韓国は破綻」する。「平和条約が批准される前、即ち日本がまだ進駐軍の統治下にある間に決着をつけることが、我々にとっては有利」 と語ったとしている。
 「李承晩ライン」は、戦後の日韓関係の出発点となる国交正常化交渉とも関わっていたのである。事実、韓国政府は1953年12月、「漁業資源保護法」を制定して、1947年から始めた日本漁船の拿捕抑留の法的根拠としている。韓国政府は、日本人漁船員の解放を求める日本政府に、朝鮮半島に残された日本人の個人資産に対する財産請求権の放棄と、戦後、日本に密入国した朝鮮半島出身者の居住を認める「法的地位」を求めたのである。
 『日韓漁業対策運動史』(昭和43年刊)では、拿捕抑留について「終戦後茲に二十年、韓国の国際法を無視した不法拿捕は、実に漁船三二八隻、抑留船員三九二九人、死傷者四四人にして、この損害額は総計九十億三千百万円に達する」としている。
 その「李承晩ライン」は1965年6月22日、「日韓漁業協定」の締結で廃止されたが、竹島問題は未解決のまま残されることになった。それも1954年、日本政府が韓国政府に対して、国際司法裁判所への付託を提案したことから、韓国側には「独島は日本の朝鮮侵略の最初の犠牲物」とする歴史認識が醸成された。そのため日本が独島の領有権を主張すると、韓国側では「日本が再び韓国侵略を試図する」として、反発するのである。この歴史認識は、後の「歴史教科書問題」、「慰安婦問題」、「日本海呼称問題」、「徴用工問題」等にも影響し、日本に反省や謝罪を求める論拠となっている。
 一方、日本は何故、半世紀以上も竹島問題を解決することができなかったのか。本稿では、日本の課題を明らかにし、問題解決の一端を示すものである。
 
1.竹島問題と島根県議会
 竹島問題と関連して、日本政府はこれまでも3回(1954年、1962年、2012年)、国際司法裁判所への付託を韓国政府に提案したが、いずれも一蹴されている。