移民問題・マイノリティー問題に見る米国の光と陰
―個人的視点から―

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顧問・元ブラジル国駐箚特命全権大使 島内 憲

 筆者は、8歳から14歳まで(1954~1961年)、父の在米大使館勤務期間中、米国首都のワシントン市で過ごした。現地の公立学校に通い、米国人の子供と机を並べて学んだ。また、同居の祖母から日系人収容所抑留中の経験についてファーストハンドの話を聞いた(詳細後述)。60年以上前のことだが、話の一部を鮮明に覚えている。筆者自身、1971年に外務省に入り、1983年~1986年及び1998年~2000年の2回、計5年間の米国勤務を経験し、各時代の移民問題、マイノリティーの状況を目の当たりにした。
 本稿では、筆者自身の皮膚感覚に基づき、米国の人種差別、移民政策、マイノリティー問題等について述べたい。
 
I. 少年時代に見た米国の黄金時代と暗黒面
 1954年、外務省に勤めていた父が在米大使館勤務になり、家族でワシントン生活をすることとなった。当時の米国はどういう国だったのか。大統領は第二次大戦の英雄、ドワイト・D・アイゼンハワー元帥で、孤立主義を排し、ソ連帝国主義に対する自由世界のリーダーとして国際政治に積極的に関与する政策を推進していた。
 米国民は1957年のソ連によるスプートニク打ち上げ成功に大きな衝撃を受けたが、結果として、宇宙競争の劣勢挽回の中で米国が底力を世界に見せつけることとなった。国全体として自信と余裕に満ちており、「アメリカ合衆国を再び偉大な国に(MAGA)」のような奇異なスローガンが出てくる余地はなかった。
 しかし、国内の一部で黒人差別が公然と行われ、先進民主主義国とは思えない暗黒面を抱えていた。因みにマーティン・ルーサー・キング師がワシントン大行進で有名なスピーチ(「私には夢がある」)を行ったのは筆者が帰国した後の1963年である。筆者の通っていた小学校には黒人の子供が1人もいなかった。南部とは異なり人種隔離政策があったわけではなく黒人の入学は可能だったが、学区内に黒人家族が住んでおらず、事実上の人種隔離が存在した。アジア人は少数の日本人の子供だけだった。2年生で転入した時、筆者以外の日本人の子供は4年生の女の子が1人いただけだった(父親は同じく大使館勤務)。非白人の子供は他にいなかったように記憶している。
 因みに「自由な白人」以外の帰化を認めない1790年移民法の改正により、アジア人の帰化が認められるようになったのは1952年のことである。
 ワシントンの生活が始まった1954年の時点では、終戦からまだ9年しか経っていなかった。今から9年前といえば2011年、東日本大震災の年である。