米中対決を“新冷戦” などとは呼べない
―中国にも、アメリカにもそれほどの権威はない―

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政策提言委員・元参議院議員 筆坂秀世

 今の米中対決を捉えて、“新冷戦”ということがよく言われている。だが私は、現在の米中対決を“新冷戦”と簡単に定義することには、同意できない。現在の米中両国は、確かに群を抜いた超大国である。だがそれに相応しい役割を果しているのだろうか。到底、そうは思えないのである。
 
そもそも冷戦とはどういうものだったか
 軍事力を使った戦争を“熱い戦争”と見立て、軍事力を直接使用はしないが、資本主義・自由主義陣営と社会主義・共産主義陣営が激しく対立する体制のことを“冷戦”と呼んだ。要は、資本主義か共産主義かの体制対決のことであった。
 そこには明確なイデオロギー(思想)の対決があったことが、その大きな特徴であった。戦後、ヨシフ・スターリン率いるソ連は、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアなど、東欧諸国にソ連軍を進駐させ、占領下に置くことによって、無理矢理、共産党を中心にした社会主義政権を次々と誕生させていった。
 これに危機感を抱いた前英国首相チャーチルは、1946年3月、アメリカ・フルトンの大学で講演を行ない次のように語った。
 
 《バルト海のシュテッテインからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある》(1946年3月)。
 
 有名な「鉄のカーテン」演説である。この講演は、アメリカがソ連などの共産主義の脅威に対して、資本主義体制擁護のために積極的に対応することを求めたものである。
 これを受けた米大統領トルーマンは47年3月の議会演説で所謂「トルーマン・ドクトリン」を明らかにした。これは戦争で国力が疲弊したイギリスに代わって、今後、アメリカが世界の資本主義体制を維持・拡大するための外交軍事戦略=冷戦戦略を表明したものであった。これはアメリカが名実ともに世界の資本主義陣営の盟主となり、「世界の警察官」の役割を果すということの宣言であった。
 これに対抗してスターリン指導下のソ連は、47年9月、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を発足させた。これにはソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴスラビア、フランス、イタリアの共産党・労働者党が参加した。この狙いは、ソ連の対外政策への支持を各国の共産党に押し付けることにあった。
 アメリカは48年から「ヨーロッパ復興計画」(マーシャル・プラン)を実施していった。