オーエン・マッシューズ著『完璧なスパイ スターリンのマスター・エージェント、リヒャルト・ゾルゲ』を読み説く

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上席研究員・麗澤大学准教授 ジェイソン M・モーガン

 アメリカには、“Itʼs better to be lucky than good”(出来る人間よりも、ついている人間になりたい)という諺がある。つまり、いくら才能があっても運が悪ければ何も出来ない。才能がなくても運さえ良ければ大丈夫、という意味だ。
 
 さて、リヒャルト・ゾルゲは、「出来る人間」か「ついている人間」か、どちらだったか。
 
ゾルゲ誕生の背景
 ゾルゲは、世界で最も有名なスパイの1人だ。20世紀の一番危機的状況、つまり1930年代後半、世界中の指導者がどうしても知りたい情報――大日本帝国がソ連を攻撃するかしないかの極秘情報――を、ソ連の指導者スターリンにこっそりと知らせた人物が、リヒャルト・ゾルゲだった。
 オーエン・マッシューズの近著『完璧なスパイ スターリンのマスター・エージェント、リヒャルト・ゾルゲ』には、ゾルゲが結局、出来る人間だったか、単に運が良かったかについては論じていないが、ゾルゲの人生と彼が生きた時代的背景を細かく紹介する本として、また、ゾルゲの「仕事」を理解する材料として重要な1冊と言える。ゾルゲについては、特に本を読んだ事のない日本人でも、その経歴や暗躍ぶりはそれなりによく知られている。
 リヒャルト・ゾルゲは1895年、ドイツ人の父とロシア人の母との間に生まれた。当時ロシア帝国だったバクーという石油のブームタウンで育ったゾルゲは、常に周りの環境に馴染めず自分は一体誰なのかと理解に苦しんでいたようだとマッシューズは分析している。
 ゾルゲは共産主義のスパイとして来日し、世界の貧しい人々のために「資本主義」と「有産階級」と戦っていると自己正当化し工作活動をするが、他の多くの共産主義者らと同じく、ゾルゲは裕福な家庭で育てられた。
 ゾルゲが2歳の時、一家はベルリンに引っ越したが、ドイツ帝国での生活も豊かで、「我々の家では経済の心配が一切なかった」と後で回想している。しかし、ゾルゲの大叔父に当たるフリードリヒ・アドルフ・ゾルゲはカール・マルクスの仲間として、アメリカでは労働者階級の中で共産主義運動をしていた。ゾルゲはその大叔父からマルクス主義理論について初めて知ることになる。少しずつ自分が育てられた「ブルジョア」階級の生活に背くようになっていくのである。
 ゾルゲにとって第一次世界大戦は、政治的にもその人生や思想においても大きなターニング・ポイントとなった。きっかけの1つは、1914年8月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がロシア帝国に対して宣戦布告した時、ゾルゲは直ちに兵士として志願。