中国を組み入れたサプライチェーン(製品供給網)のグローバル化は、中国を国内総生産(GDP)世界第二位に押し上げた。中国は製品供給網から得た利益を軍事費につぎ込み、国際秩序を力で変更しようとしている。しかし、武漢肺炎の感染拡大が転換点となり、製品供給網の見直しはグローバル化の後退とともに本格化する気配だ。
本稿では、経済のグローバル化が何をもたらしたのかを振り返り、武漢肺炎をきっかけに明らかになった製品供給網の問題点と脱中国を中心に我が国が取り組むべき課題について考える。
1. 電機業界の敗北分析
我が国の企業が警戒せずにグローバル化に乗った結果、競争力の低下を招いた失敗例として電機業界を取り上げる。平成初期には、電機産業は自動車産業と並ぶ我が国の代表業種だった。ところが令和を迎え、電機業界はアジア勢との競争に敗北し、かつての栄光は見る影もない。アジア企業との競争に敗北した経緯と原因を短く振り返りたい。
電機業界各社は1970年代頃から台湾や韓国の輸出加工区に進出し、製造委託や国内製造拠点の海外移転を進めた。日本の電機各社は米国への製品輸出を増やし、米国の電機会社は生産をメキシコや香港、台湾に移して製品を米国内に逆輸入した。日本企業も対抗するためにアジア進出を加速した。
この頃から「労賃の安い国を使い生産し、製品を先進国市場へ輸出する」ための投資が始まった。日本企業の製造現場は、継続的に改善を繰り返し、人の作業法だけでなく使用設備・機械も小改善でラインを日々発展させてきた歴史を持つ。日本企業ではこの長年の努力で変化してきた現場情報である暗黙知を形式知化させ、標準化を国内の現場でのものでなく、全世界共通のプラットフォーム化するような仕組みにしていくことを進めた。企業は暗黙知を形式知化した後、コストダウンのため労賃の安い国に工場を建て、我が母国にある工場の生産を縮小または閉鎖した。所謂“製造の空洞化”の始まりである。電機会社は東南アジア諸国にも進出を開始し、1990年代半ばには製品ごとや部品ごとの最適の生産国を選び、アジアでの分業体制を構築した。
EMS(電機会社から機器の設計・生産を受託する)企業が大きく成長し、1990年代後半から2000年代にかけM&Aで規模を拡大した。国内に残った工場に従事する人たちの賃金は進出先である労賃の安い国との間で、常に“賃金の安さ”を競争させられる。当然、所得は上がらず貧困化が加速する。中にはコスト競争に追いつくことが出来ず、廃業するものも出た。