「異文化の衝突」の視点から見る日韓関係
―尚文軽武と「恨の文化」の歴史的背景を考える―

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顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男

日韓両国民を隔てる「心のバリア」
 世界のどこを見渡しても隣国というのは仲が悪いものである。国境を接し多くの人が行きかうだけに常にトラブルが起こる。1つの問題を解決してもすぐに次の問題が起こるので平穏な時がない。お互いの国民同士の感情もこじれやすい。ましてやかつての植民地・帝国主義の時代のように国家というものが攻撃的な性格を強め自国の利益を優先する対外政策を展開すれば衝突が起こるのは必至である。
 日韓関係もこじれ続ける隣国関係という点では同じ範疇に入るのだろうが、しかし、私が個人的に見るところ、どうもこうした「一般的な隣国事情」だけでは説明しきれない特殊性が両国関係の基底に存在するように思えてならない。つまり、この両国の関係には政治や外交では解決し得ない民族的・文化的な相克があり、それを認め合った上で「利害を調整しあう関係」、換言すれば「事態の最悪化を回避すべくマネージし得る関係」を構築するしか現実的な選択肢がないように思われる。慰安婦の問題にしろ、所謂、徴用工の問題にしろ単に戦前・戦中における日本の朝鮮半島支配に起因する問題として政治的に解決しようとしても朝鮮(韓国)の人々の「心の問題(屈辱感)」までは解消できないからである。彼らは日本側が「歴史に向き合い、過去を反省し、こころから詫びる」ことを求めているようだが、彼我の歴史認識に根本的な違いがある以上、政治決着の道はないのではないか。
 私は日韓関係の改善なるものに悲観的である。勿論、表面的な改善は可能だろうが、根本的な部分においては相互の違いが大きすぎ局面を打開しようと努力しても徒労に終わるだろう。昨今の日本における韓流ブームの隆盛や人の交流の深まりは隣国間の相互理解には役に立つし、場合によっては互いに親近感を抱くことを可能にするかも知れない。ただ、こうした親近感は一部の人の間に限定され、国民全体のレベルにまでは浸透しない。それこそ些細なトラブルが起こるだけで一気に吹き飛んでしまう性格のものだろう。
 日本人と韓国人(朝鮮人)の間には目に見えない「心のバリア」が存在し、これが国と国の関係に大きく影響している。本稿ではその「心のバリア」の正体を遠い過去までさかのぼる中で考究してみたい。両国の国民性の違いは単に相互理解が困難というレベルではなく、今や相対立し衝突する状況にすらあるのではないか。ちょうど四半世紀前、米国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンはその著書で「文明の衝突」を論じたが、次元は違えども両国関係の現況を「異文化の衝突」という視点から俯瞰することが出来れば、上述した「最悪化の回避」の道筋も見えてくるような気がしてならない。