辛亥革命後の中国と全体主義の浸透
1911年、武昌で辛亥革命が勃発し、1912年、清朝が滅亡する。しかし、その後、1949年の中華人民共和国の建設まで、中国は内乱と日本との戦争という二重の苦しみを味わい続けることになる。
清朝の滅亡は、近代的な中国建設への道を開いた。既に、小手先の洋務運動ではなく、政体自体の大変革無くして、即ち、農業文明の生んだ皇帝独裁体制と決別し、近代的な西洋風の政体に変貌することなくして、中国の未来はないという危機意識は広く浸透していた。康有為や梁啓超の進めた変法運動である。そのためには近代的なアイデンティティの下で民族意識を高揚させ、近代的「国民」を創出することが必要であった。20世紀に入り、抜け殻となった清から近代国家建設を目指そうとした人々は、自分たちの国を「中国」と呼び始めた。中国とは20世紀に生まれた新しい言葉である。
中国の思想界は活性化した。三民主義を唱えた孫文、民主主義を根付かせようとした宋教仁、初期の中国共産党を指導した陳独秀等の優れた思想家が輩出した。清朝の古い政治体制を捨て、儒教と科挙を基本とした皇帝独裁と士大夫による神権官僚政治を捨て、軍事強国を作り、産業国家を立ち上げ、満漢蒙回蔵諸民族からなる「中国」という想像の共同体を育てあげ、民族意識を高揚させて近代的「中国国民」を創出するというのが、辛亥革命後の中国人の夢であった。それは半世紀前の日本が明治維新で取り組んだ課題と同じ課題であった。実際、多くの中国人が日本に留学し、日本に範を取った近代国家建設を夢見ている。
しかし、個人主義に立脚した自由主義的、民主主義的な考え方が根付くには、当時の中国の状況は余りに厳しすぎた。軍閥割拠と内乱である。清朝が倒れた後の中国は四分五裂した。北方には軍閥が割拠していた。孫文は南の広州から革命の狼煙を上げるつもりであったが、革命は武昌で発生した。孫文の名声は高かったが、広州から武昌を纏めて北京へと攻め上るには軍事力が足りなかった。国民党は支持者を増やしていったが、革命を実現するには強権が必要であった。孫文は、国民党を独裁的に支配した。内乱を制するにはそれしかなかったであろう。やがて「革命未だ成らず」と言い残して病に倒れた孫文の後に頭角を現したのは、日本の振武学校(陸軍士官学校の前に入る学校)に学び、日本陸軍の野砲部隊に所属し、中国に帰国してからはソ連の支援を受けて黄埔学校で更に軍才を磨いた軍人、蒋介石であった。
この頃、国際政治における全体主義思潮が大きな影響を持ち始めていた。