ベルギーという西欧の国は人口1,100万人ほどの実に小さな国である。私は現役の外交官時代に2度在勤したが、国の隅々まで旅行し、最後には未知の行先がなくなるほどだった。高速道路網が整備されていることもあるが、首都のブリュッセルから最も遠隔の国境沿いの町まで行くのに車で2時間ほどしかかからない。国土面積は日本の九州ほどの大きさだが、山がちな九州とは違いベルギーはほぼ平坦な地形なので実際に旅行すると広々とした感じは受ける。この広大な平地は豊かな農業を育んできたが、いざ戦争となるとひとたまりもない。実際、第一次・第二次の世界大戦時にはドイツ軍の侵攻を受け、2~3週間で国土の大半を占領されてしまっている。豊かな大地は同時に防御不能の国土でもあったのである。
しかし、その小国ベルギーも欧州では一定の存在感を保っている。特に首都のブリュッセルは欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)それぞれの本部が存在することから「欧州の首都」と呼ばれ、「ベルギーは知らなくてもブリュッセルは知っている」と皮肉られるほど高い知名度を誇っている。ブリュッセルは世界に冠たる国際都市で、世界のほぼ全ての国の外交使節が置かれ、大使の数はベルギーとの二国間関係やEU/NATOへの代表などで優に300人を超える。この事実だけでもベルギーの安全は国際的に保障されていると言える。こうした状況は国際政治の偶然がもたらしたものではなく、2度に亘る世界大戦で国土を蹂躙された小国が、戦後75年以上に亘り、叡智の限りを尽くして現出させた「国家安全保障戦略」の賜物なのである。
本稿ではこの「国家安全保障戦略」の中身をベルギーという国の「生い立ち」を振り返り、内政上の困難とたゆまぬ外交努力を積み重ねてきた歴史を辿ることで分析してみたいと思う。日本は決して小国ではないが、ベルギーがドイツ、フランス、英国といった欧州の大国の狭間にありながら今日まで国を守り抜いてきた叡智は、米国、中国、ロシア(一時的にソ連)の3大国に取り囲まれながら生き抜くことを運命付けられている我が国にもあるいは参考になることがあるかも知れない。
二大文化圏の境界線上の国かの司馬遼太郎はその著『オランダ紀行』(街道をゆくシリーズ35)の中で、「ベルギーにはヨーロッパ文明の全てがある」と言い、同書の別のところでは「ベルギーは、西欧の中軸といわれる。国内に、フランス語を話す人々とオランダ語を話す人々がいるというだけでも、ラテン文化とゲルマン文化が融合しているといってよく、経済力もあり、文化も高く、小国ながらヨーロッパの一中心であることを失わない」と書き残している。