第3回 戦前の台湾統治が残した倫理的な義務

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顧問・元海上幕僚長(元海将) 武居智久

 昨年10月に行われた日本戦略研究フォーラム主催の定例シンポジウム「迫りくる中国の『赤い波』」から受けた衝撃は今も重く残っている。チベット、ウイグル、モンゴルの各地にて古代然とした民族破壊(ジェノサイド)を平然と行う中国共産党の異常な政治体質は決して我々と相容れるものではない。楊海英静岡大学教授はモンゴル民族の苦境を語る中で、「モンゴル民族の独立国を作るという約束を日本人は忘れていないでしょうね」と真剣な表情で問いかけた。五族協和をスローガンに満州国を建国した日本政府には今もってモンゴルに対する責任があるという内容ではあったが、日本政府にも英米のように中国の人権問題に真剣に取り組んで欲しい、それが本意であったことは間違いない。
 司馬遼太郎は同種の「詰問」を高砂族のご婦人から受けている。司馬が取材のために台東(タイトン)を訪問した1993年4月、日本が台湾と断交してから21年後のことであった。ご婦人は1921年に嘉義の富家の娘に産まれた蔡昭昭さんという。日本の台湾併合後に生まれ、青春時代までを日本人として育ち、国府軍の進駐と共に中国人となった。この昭昭さんが大きな瞳を据えて不意に「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と、ゆっくりと司馬に問うたのである。司馬は、ご婦人が美人なだけに怨ずるようにただならぬ気配がしたと書いている。日本は敗戦によって台湾を捨てた。そして現代政治の流れの中で仕方ないとしても、日中国交正常化によって再び台湾を捨てた。昭昭さんは間を置いて同じ質問を司馬に繰り返す。「たずねている気分が、(日本人の)倫理観であることは想像できた。」と司馬は書いている。
 1972年以降、中国政府は日台が何らかの公的関係を結ばないように陰に陽に政治的な圧力をかけ続けている。日本政府には択一の外交、つまり台湾を取るか中国を取るかのゼロサムゲームの外交を求め、その結果、日本政府はいままで中国や台湾という現実に正面から向き合うのを避けてきた。言い換えれば、常に曖昧な態度を取って事を荒立てないように努めてきた。