ウクライナ危機はソ連崩壊の残滓
―プーチンらKGB 同僚が攻撃決定か―

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政策提言委員・拓殖大学大学院特任教授 名越健郎

 ロシアのプーチン大統領が2月24日、ウクライナへの「特別軍事作戦」を軍に命じ、ウクライナのほぼ全地域で戦端を開いた。一方的に戦争を仕掛ける侵略行為であり、欧州は第二次世界大戦後、最も深刻な安保上の危機に直面した。今後の展開次第で、ウクライナは国家解体の危機に直面しかねない。
 それにしても、プーチン大統領はなぜ時代錯誤の全面戦争を仕掛けたのだろうか。北大西洋条約機構(NATO)加盟を防ぐ地政学要因や過剰な安全保障意識が指摘されるが、それ以上に「ウクライナはロシアの一部」とする、プーチン氏のいびつな歴史観が大きい。
 同時に、ソ連邦崩壊から30年を経て、ロシアの勢力圏を拡大したいという野望もありそうだ。ウクライナ侵攻を決めたのは、プーチン氏と旧ソ連保安委員会(KGB)の元同僚らだったと見られる。KGBは旧ソ連共産党の指導の下、ソビエト体制を守り、非合法活動も行った。
 ソ連の「変異株」である旧KGBの中堅将校らが政権を握り、旧ソ連地域に脅威を振りまいている形だ。失敗に終わったソ連社会主義体制の残滓が健在なのだ。ここでは、プーチン氏とウクライナの因縁を辿りながら、戦争の背景を探った。
 
ウクライナの悲劇
 ウクライナは20世紀以降、悲劇の歴史を辿ってきた。1917年のロシア革命後、短期間独立国家が誕生したが、赤軍によってすぐに占領され、ソ連邦に編入された。
 ソビエト体制の拙速な農業集団化政策で、1921、32年の二度大飢饉に見舞われ、特に32年の飢饉では、推定1,000万人近い死者が出たとされる。ウクライナは穀倉地帯ながら、スターリンは農民から食糧を簒奪した。
 30年代後半のスターリン粛清では、第二の共和国だったウクライナの共産党組織が弾圧の対象となり、大量の党員が逮捕・処刑された。
 1941年6月にドイツ軍侵攻で始まった独ソ戦では、ウクライナが4年間に亘って戦場となり、700万人以上が死亡した。旧ソ連全体の死者は2,700万人とされるが、ウクライナの平原で独ソ両軍の戦車部隊が真っ向から衝突し、4人に1人が犠牲になったとされる。
 1986年のチェルノブイリ原発事故は史上最悪の原発事故となり、大量の放射能が流出。原発周辺の半径30キロゾーンは今も立ち入り禁止区域だ。
 1991年12月、独立の是非を問うウクライナの国民投票が90%以上の賛成で成立したことが、ソ連解体を後押しした。15の旧ソ連構成共和国で国民投票を実施したのはウクライナだけで、ロシアのエリツィン指導部は、ウクライナ抜きの連邦は意味がないとして、ソ連邦解体を決めた。