ルーマニアにおける「共産主義の残滓」と「新たなロシアの脅威」

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元ルーマニア国駐箚特命全権大使 津嶋冠治

株の変異
 ある物の特質を「株」とすれば、日本もルーマニアも相応の株を持っているはずだ。その意味で今次特集の標題「マルクス・レーニン主義の変異株」は言い得て妙である。これをルーマニアという旧共産主義国の株として捉え語ってみたい。
 ルーマニアの200年前を見ると、1812年に露土戦争に負けたトルコが中世に征服していたルーマニアの領土ベッサラビア(現在のモルドバ共和国)を勝手にロシアに割譲したことがあった。ルーマニアにとって腹をえぐられる行為であった。マルクスはこの行為を「無効」と言っていたと言われる。もとより、ロシアもトルコも当時よりアジアの専制主義的な悪魔性を有している国である。
 他方82年前にはルーマニア王国は、マ・レ主義のソ連の最後通牒的脅迫(モロトフ=リッベントロップ不戦条約の秘密議定書)でベッサラビアと北ブッコビーナ(ルーマニア国境北付近のチェルナウツィ地区)を窃取した。ルーマニアにとって、これは誰からも知らされず、寝耳に水で、右に対処するためのルーマニア王カロル2世の御前会議で、後に暗殺されるニコラエ・ヨルガらの反対にも拘わらず、大多数の意見に従うとして国王はこの最後通牒を受領した。もしもこの時にルーマニアが抵抗しておれば、その後の西側の対ルーマニア姿勢は若干変わっていたかも知れない。
 この後、ルーマニア軍はアントネスク司令官の指揮下、ドイツ側に立って「バルバロッサ」作戦に参画、最初は1941年6月22日開始のオデッサ作戦に実質的に参加した。93,000人の兵士を失うも辛勝。他方バルバロッサ作戦は同年12月まで続いた。この作戦名はドイツによるソ連奇襲攻撃作戦の秘匿名称で、「枢軸軍の戦術的勝利・戦略的敗北」と評されているようだ。
 この作戦においてルーマニア軍は当然旧領回復を図ることを目的とした。しかし、オデッサ作戦で従来のルーマニアの東部国境であったドニエストル川を越えてしまったことには、同川以東は歴史的にルーマニアの版図であったことはなく、大ルーマニア構想にも含まれることはなかったので、国内でも異論があった。結果的に、ルーマニア軍は9月にオデッサで辛勝したものの、幸先の良いものでなかった。ルーマニア軍による26万人のユダヤ人虐殺はこの時に起きたとされている。
 「バルバロッサ」の前哨戦のオデッサ作戦に続き、ルーマニア軍はスターリングラードの攻防戦(42年6月~43年2月)に付き合わされ、後半からのソ連軍の反撃に枢軸側はたじろぎ、敗走し、そのままソ連軍はルーマニア国境に迫った。