室町幕府は明朝の圧力にどう対処したのか
―能狂言は物語る―

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東京外国語大学教授・詩人 西原大輔

 習近平は、現代の永楽帝になりたいらしい。経済成長の機を捉え、対外膨張を成功させることが、王朝時代の偉大な中華皇帝の要件であった。尖閣諸島、台湾、南シナ海、中印国境、チベット、南モンゴル、ウイグル人の東トルキスタン、一帯一路、そしてアメリカとの全面対決。古い中華世界の価値観が、21世紀に蘇っている。
 習近平が手本としているのは、明朝の永楽帝であろう。とするならば、永楽帝の野望を挫いた四代将軍足利義持こそが、現代日本の良きお手本である。
 義持は、能のパトロンだった。その義持の対明外交を賛美するために、世阿弥が書いたのが能《白楽天》である。世阿弥はさらに能《放生川(ほうじょうがわ)》を作って、「応永の外寇」での日本の勝利を祝福した。1419年に朝鮮が対馬を侵略したのが、「応永の外寇」である。竹島を奪われ、尖閣諸島を脅かされつつある我が国にとって、今、《白楽天》を始めとした一連の能を読むことは、特別な意味を持っている。
 
1.チャイナの対日強硬姿勢
 西暦1419(応永26)年は、日本にとって危機の年になった。対外拡張政策を続ける永楽帝は、使者呂淵(りょえん)を日本に派遣した。軍事侵攻を示唆して我が国を脅し、北京に挨拶に来させるためである。呂淵は6月20日に博多に到着した(『歴代鎮西要略』)。そして、兵庫の港に移動したのは、7月前半と考えられる(『善隣国宝記』)。
 この国難にあたり、我が国はどう対処すべきか。中華皇帝の威に恐れをなし、穏便に事を収めるため、属国の地位に甘んじて北京のご機嫌を取るのが良いのか。それとも、チャイナの傲慢な使節に毅然と対処すべきか。四代将軍足利義持が採ったのは、後者だった。明朝皇帝との徹底した対決である。
 まず日本人の禅僧元容収頌(げんようしゅうじゅ)を兵庫の港に派遣し、永楽帝からの国書の内容を確認させた。その高圧的な内容に激怒した将軍は、呂淵を追い返す決断を下した。使節には会わない。京都にも入れない。兵庫の港からそのまま北京に帰れ。但し、強気の四代将軍といえども、さすがに使者の首を刎はねることまではしなかった。
 世阿弥は、この一連の外交交渉を、能のパトロンである将軍の近くで見ていたと思われる。そして、良き芸術支援者足利義持の対明強硬外交を賛美する能を書いた。それが《白楽天》だ。現代なら、芸術家の世阿弥が権力者に「忖度した」と表現されるだろう。