はじめに
和歌が我が国を守るのに欠かすべからざるものであることは前回述べたが、今回はそれを少し広げて、国防と文芸・文学、つまり文化との関係を考えてみたい。文芸・文学が国防に関係していることなどあるのかと思われるかも知れないが、国を守ることは国の歴史を守ることでもあると考えると分かり易いかも知れない。これは現在我が国が直面している問題でもある。歴史とは歴史観の上に形成されるものであり、歴史観は文芸・文学によって国民の中に受け継がれていく。このような歴史の存在は、古今東西、変わるものではなく、古代ギリシャ語に語源のある英単語「history」の中に「story」の語が含まれているのは、その証左と言える。逆に、もし、どこかの国を滅ぼそうと企図するならば、その国の歴史とその器とも言える文芸・文学を取り上げることが、時間は掛かっても確実な手段となろう。敗戦後、占領軍によって国語に制限を加えられ、歴史教科書を書き換えられた国が今どのような状況になっているか、心当たりがあるはずだ。
本稿では、戦前から戦後にかけての日本の文芸・文学界で、「日本とは何か」を世に問い続けた保田與重郎と三島由紀夫の文章を紹介しながら、文士が国を守るとはどのようなことなのか、論じてみたい。
日本浪曼派の重鎮、保田與重郎は国の基を「朝廷の風儀(てぶり)」「王朝の風雅(みやび)」、つまり、天皇を源として脈々と受け継がれる「文芸」に置く。保田の歴史観は、「風雅をたづねて國がらの道を知る」ことにある。三島もまた、「文化防衛論」の中で「みやび」、言い換えれば、「文化概念としての天皇」を守れと説いた。この2人の文士から今日の日本人が学ぶべき「道」を、些かでも拙論で示せれば幸いである。
後鳥羽院の精神
《永遠の神話の日よりつたへられた、日本の燃ゆる火そのままを今に燃焼せしめよ。我らが使命は火を護ることであつた。そのみちは詩人のゆく道である、英雄の歩いた道である。いくさとうたの拓く今日の道である》
この言葉は、保田與重郎が著書『後鳥羽院』の序で述べたものである。保田は、日本の文芸と精神を考える者は、一度、後鳥羽院を通らねばならぬと述べ、著述を始めるが、これに習い、拙論も後鳥羽院と国防の関連から始めたいと思う。後鳥羽院をどのように捉えているかは、その人が日本の精神、歴史、ひいては国防についてどのような姿勢で臨むのかを示す、言わば物差しの役割を果たすからである。