日本国憲法75 年間の軌跡
―特に安全保障の観点から―

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顧問・駒澤大学名誉教授 西 修

75歳を迎えた日本国憲法
 日本国憲法は、今年の5月3日、施行から75周年を迎えた。人間に例えると、後期高齢者の仲間入りをしたわけである。人間も75歳ともなれば、何度か治療を受けた経験があろう。ところが、日本国憲法は、一度も治療を受けたことがない。世界の憲法で75年間、一度も治療(改正)を受けたことのない憲法は、我が国以外に存在しない。日本国憲法は、まさに異様、異例、異常な存在と言える。
 一体、日本国憲法はこの75年間、安全保障上いかなる措置を講じてきたか。以下で3つの出来事を取り上げ、また「狼少年」の如く、安全保障政策を強化、深化させれば、日本国は戦争をする国になると唱えてきた所論を検証したい。
 これが、本稿の目的である。
 
日米安全保障条約の改定―日米同盟の確立
 1951(昭和26)年9月8日午前10時から、サンフランシスコのオペラハウスでサンフランシスコ講和条約が、また午後5時からは、同市の北西部に位置するプレシディオの米軍基地内で、旧日米安保条約が調印された。
 この旧日米安保条約には、少なくとも3つの根本的な問題があった。
 第1に、条約は、米軍の日本国への駐留を明確に認めているが、米軍による
日本国の防衛義務が定められていない。実に片務的である。
 第2に、しかしながら、外部の国による教唆または干渉によって引き起こされた内乱または騒擾(そうじょう)を鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて、米軍を使用することができる。本来、内乱や騒擾を鎮圧するのは自国の警察などであって、外国の軍隊に依存するのは、独立国と言えないであろう。
 第3に、条約の期限が明記されていない。通常、安全保障条約には期限が設定されているものである。
 旧日米安保条約に本質的な欠陥があったことは、ときの政権の座にあった吉田茂首相自身も、よく認識していた。それ故、本条約には米国側は、ディーン・アチソン国務長官など4人が署名したが、日本側は、吉田1人だけが署名した。条約は不人気であり、自分1人が責任を負えばよいと考えたのである(吉田茂『回想十年』中公文庫)。
 こうして、旧日米安保条約は、改定されるべき運命にあった。この改定に意欲を示したのが、1957年2月25日、首相に就任した岸信介である。