1. 国連改革の必要性
ウクライナに対するロシアの武力による侵略は、いかなる予断も許さない、現代国際社会における一大惨事になっている。これは、第二次大戦後の国連による普遍的集団安全保障体制が、当初から予測されていた通り機能しない典型的な事例を示している、という意味において、これまで幾多あった武力衝突事案に比しても深刻な事案と捉えられるからである。
翻って、国際社会は、2度に亘る世界大戦を経験して、二度とそのような世界規模の武力衝突を起こさないように、国際連盟の失敗の経験も踏まえて、国際連合憲章を起草した。確かにそれは、第二次大戦の戦勝大国、米(ルーズベルト、トルーマン)、英(チャーチル)、そしてソ連(スターリン)を中心として構築されたものであった。
1944年8—10月のワシントンD.C.郊外のダンバートン・オークス会議、1945年2月のヤルタ会談、そして最終的には1945年4—6月のサンフランシスコ国連憲章制定会議を経て、現在の国連安保理を中心とした「普遍的集団安全保障体制」が成立する。
その骨格は、それまでの「同盟体制による勢力均衡」による平和から、殆ど全ての国際社会のメンバーを包含して、①紛争の平和的解決義務と、②武力行使の禁止義務を課し、それに違反するものに対しては、全ての加盟国によって非軍事的制裁(経済制裁)だけでなく軍事的制裁も加えることによって、国際の平和と安全を恒常的に維持しようというものであった。
しかしながら、この国連憲章制定過程で、既にこれが十全に機能しないことは当初から明らかになっていた。何故なら、国際紛争解決に主要な責任を負い、その決定は全加盟国を法的に拘束するという画期的に強力な力を与えられた安保理の決定について、ソ連(現ロシア)を含む5常任理事国はいかなる場合にも、「拒否権」を有する、ことになったからである。
ダンバートン・オークスにおいてまさしく英国の代表が主張した通り(米国もほぼこれに同調)、紛争の当事国になった常任理事国は安保理決議の際に拒否権を使う立場に置かれるべきではない(「紛争の渦中にある人が、その紛争に関して一票を投じ拒否権を使い得る立場に立つようなことは、ありうべからざること、そのような人は判事たり、または陪審員たるべきではない」)との、極めて当然の法理論は、主としてソ連(スターリン)の頑なな主張の前に葬られることになった。