仲介国の無かった1939年の独ポーランド交渉
1939年8月末、ドイツ・ナチス政権とポーランドは白熱した交渉に望んでいた。ヒトラーの要求は、ドイツ系住民が9割を超える港湾都市ダンツィヒの返還と同じくドイツ本土から奪われたポーランド回廊に残るドイツ系住民およそ150万人の保護であった。同回廊を通じてドイツ内陸部はダンツィヒに繋がる。
かつて独ポ両国は、共産化したソビエト・ロシアを警戒し、不可侵条約を結んでいた(1934年)。ポーランドは、1919年から21年までソビエトと戦った(ポーランド・ソビエト戦争)。ポーランドにとっての潜在敵国はドイツだけではなかった。常にソビエトの脅威も念頭に置いた外交が要求された。
そうでありながら、1939年のポーランドはソビエトの危険を忘れた。ポーランドが「自らの頭」を使った独自外交ができていれば独ソによる両面の脅威にバランスを取った外交が可能だった。
ヒトラーは、この交渉では、ドイツ国民の悲願であったダンツィヒの奪還についてさえも、ドイツ系住民の安全の確保が保証されれば、領土の返還までは求めないとまで妥協していたらしい。ヒトラーにとって、ポーランドは戦う相手ではなかった。あくまでもスターリンのソビエトが究極のターゲットだった。
しかし、ポーランドはそうしたヒトラーの歩み寄りに頭を縦に振らなかった。強硬姿勢の理由には2つある。1つは、英仏両国がポーランドの中立を保証していたからである(1939年春)。もう1つは、米国がポーランドに妥協するなと強い圧力をかけていたことである。その実務を担当したのはウィリアム・ブリット米駐仏大使だった。英米仏の圧力で、ポーランドは「自らの頭」で考えることができなくなっていた。
ポーランドの頑なな姿勢に痺れを切らしたドイツはポーランド侵攻を決めた(9月1日)。電撃的なスピード侵攻だったため、ポーランド外務省は外交文書の破棄が間に合わなかった。ドイツは、そうした書類を押収し、ポーランドに如何なる圧力がかかっていたかを示す文書を発見した。ドイツはそれを公開したが英米はフェイク文書であるととぼけた。
ヨーロッパ諸国は、何度も似たような危機を経験してきたが、そのたびに外交的妥協を繰り返し、物理的衝突の回避に成功していた。その好例が、ズデーデン危機であった。ズデーデン地方はチェコスロバキア西部のドイツ領と接する地方である。パリ講和会議(1919年)以前は、オーストリア・ハンガリー帝国の一部であった。