科学・技術の国家戦略を考えるために
―第三の立国のために―

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スイス連邦チューリッヒ工科大学サイエンティスト
北海道大学名誉教授 武田 靖

 前3報では、日本学術界の来し方と現状、科学と技術の峻別の必要性、アメリカの科学技術政策に起こりつつある大転換について考察してきた。それを踏まえて日本のこれからの立国はどうあるべきかについて考えて終稿とする。
 
 
I.三つ組(Triad)はどうなるか
1.科学と技術の違い
 科学と技術の根源的な違いを論じてきた。明治の開国後の立国にどのように対処してきたか。富国強兵に向けた施策としての科学と技術の扱い方は、ヨーロッパ式に理学=科学と工学=技術という腑分けで大きな成功を果たした。しかしその結果を正しく収束させる事に失敗したのが前大戦の敗戦であったと言えよう。
但し相手は既に旧来の科学と技術ではなく、それらを融合した科学+技術=エンジニアリングというアメリカ式の技術体系に基づいた軍事態勢となっていた事を認識できていたとは思えない。
 以上に見られる科学と技術の関わりは、それらが全く異なる存在entityであることを充分認識して対処しなければ正しく対応することはできない。歴史的に、科学・技術・エンジニアリング(工学)という三つ組が今後どのように収束していくかを正しく見通した上で、今後の我々の対処の仕方が決まるであろう。
 三つ組の中で科学と技術という要素は、歴史的な発展とともに存在してきたので、科学史・科学論の中でその差異を充分認識されて議論されてきた。特に戦後の科学史の泰斗である、山田慶児、中山茂、村上陽一郎の御三家は、たまたまほぼ同年代であり、しかも同時期にそれぞれが科学と技術の違いを論じた書物を著している。しかし3者ともに理学の出身であり、科学の経験や実務についての理解はあっても、科学が発生した大元であり、科学とは本質的に異なる特性を持つ技術の要目に基づいた考察は薄い。
 以下に、このこれまでの三つ組がどのように変化していき、我々はそれにどのように対処すべきかを、国の繁栄つまりは立国という観点から考える。
 
2.自然哲学としての科学は日本には無理
 日本で基礎教育を受け、曲がりなりにも科学者・技術研究者としてスタートした後にヨーロッパに移動して40年を経験してきた筆者が、遠くから日本を眺め、自らが属するヨーロッパのアカデミアで感じたことを端的に表現すると、次のようになろうか。
 「人間と自然の向き合い方が全く異なっているから、真似をしようとしても直ぐに息切れする。ついていけないのです」。