安倍晋三さんを亡くして
世界中を震撼させた安倍晋三元首相の暗殺から間もなく3ヵ月が経とうとしている。
49日を間近に控えたある日、ご焼香のため家内とともに渋谷区のご自宅を訪問した。昭恵夫人とご母堂の洋子さんに迎えられ、案内された居間の祭壇には、遺影の中で笑う晋三さんの姿と、天皇陛下からの供物などがたくさんの花で覆われていた。
私はこの日、これまでの30数年間で撮らせてもらった秘書時代の晋三さんや家族での団欒写真、喫茶店でのお茶風景、さらに、祖父の岸信介元首相、父・晋太郎元外相の葬儀の時の写真などを2冊のアルバムに収めお持ちした。
「今ご覧になるのは辛いだろうから、落ち着いたら見て下さい」と言って昭恵さんにお渡ししたのだが、お二人はすぐさまページを開いてくれた。しかしお二人は心なしか、晋三さんが笑ったり怒ったりしている百面相の写真にゆっくり視線を落とすことなく、早々に次へとページをめくっておられた。まだ現実を受け入れられないお二人のお辛い気持ちが伝わってくるようで、声も掛けられず、何とも名状しがたい気持ちになってしまった。
カメラマンの私は勿論カメラを持参していたが、とても写真を撮る勇気はなかった。夫人の肩を軽く叩いて「早く元気を取り戻して下さい」と申し上げるのがやっとだった。
安倍家とは政治家と写真家という関係ではあったが、2冊のアルバム作りでは、その1枚1枚の写真に晋太郎先生、晋三さんとの長年の思い出が私の頭をめぐり、涙が込み上げてきた。
私が親子三代にわたる葬儀の撮影をすることになろうとは、想像もしていなかった。
ゴルバチョフの写真
1990年1月、晋太郎先生から唐突に「君はゴルバチョフの写真を撮りたいかね」と言われた。「えッ、撮れるんですか!勿論撮りたいですよ」と私。「じゃ、行くか、モスクワへ」と晋太郎さん。この一声で自民党訪ソ団に同行できることが決まった。当時、晋太郎さんの秘書だった晋三さんもモスクワ行きの特別機に乗り込んだのは言うまでもない。
当時のソ連は大変な時期で、ソ連邦が崩壊の危機前夜とも言える状況の中、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を標榜し、共産主義から民主主義へと導いたゴルバチョフ大統領は世界の注目度ナンバーワンの政治家だった。
日ソ会談は順調に進んだ。