海洋国家と宗教
―歴史の視点からの一考察―

.

研究員 橋本量則

 昨今、「政治と宗教」の関係が世間を騒がせているが、はっきり申せばそれは「宗教」ではなく、宗教の名に値しない「カルト」である。古代から人類の文明と密接な関係にあった信仰と犯罪紛いのカルトを同じ「宗教」という言葉で括るのは適切ではなかろう。「宗教」とは文明を決定付ける主要な要素の1つである。それは信徒の「自然観・世界観」を規定するのが「神の教え」であり、人間の行動や倫理観は常にその影響下にあるからだ。ハンチントンは、世界の文明を、支那文明、日本文明、ヒンズー文明、イスラム文明、仏教文明、正教文明、西洋文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の9文明に分類したが、それぞれが独自の宗教の上に成り立っていると分析した。
 知識人のなかには「日本人は無宗教だ」などと言う人がいる。確かに、日本人には1つの宗教を信仰しているという意識が希薄であり、斯かる点において「無宗教」と言えるかも知れない。だが、実際日本人は年に何度も神社に参拝し、先祖供養のため墓参りし、寺で法事を行う(日本人の多くは仏教の教えに基づいて寺に参るわけではなく、先祖崇拝の要素が強い)。日本人は暮らしが神事と密接に結びついていることを全く意識せず、日々暮らしているのである。実は、これほど日々の生活の中に神事が溶け込んでいる国は他にない。家には神棚と仏壇があり、どんな小さなコミュニティにも神社と寺院があり、道には道祖神が祀られ、お地蔵さんが子供達を見守っている。日本人は神を信じるのではなく、神々と共に暮らしている。これこそが日本が「神の国」と呼ばれる所以である。これが日本人の世界観や倫理観を規定してきたのである。
 しかし、日本は「神の国」ではあるが「宗教国家」ではない。日本人の暮らしは神事、つまり神への儀礼に規定されてきたが、「神の教え」に規定されてはいない。教義や戒律などはなく、比較的自由に暮らしている。ただ、儀礼上の禁忌というものはある。その第一が「穢れ」である。神々は穢れを忌み嫌うので、人々はそれを祓い清めなければならない。これほど無意識に日本人の行動を規定しているものはないだろう。
 一般的な宗教では「神の教え」、つまり教義で信徒の行動を規定するが、日本では「神々」と共に暮らすための「儀礼」が行動を規定する。即ちここに「宗教」と「神道」の別がある。絶対的な「神の教え」に馴染みのない日本人にはこの違いがあまり理解できていないようである。必然、世界で繰り返されてきた宗教をめぐる激烈な闘争についても、その原因を理解できない。