基盤的防衛力構想の影響とその終焉

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顧問・前防衛事務次官 島田和久

1.はじめに
 昨年末に閣議決定された国家安全保障戦略、国家防衛戦略及び防衛力整備計画の「3文書」については、既に多くの批評がなされているが、最も重要な点は、現実の脅威に対して我が国を守り抜くことのできる自衛隊を構築する決意が示されたことであり、これを裏打ちする資源配分がなされたことである。
 これが計画通り実行されれば、戦後の我が国において初めて「所要防衛力」が具現化することになり、半世紀近くにわたって根を張っていた基盤的防衛力構想が終焉を迎えることを意味する。
 本稿では、防衛力整備の経緯を振り返り、基盤的防衛力構想が及ぼした影響について私見を述べたいと思う。なお、過去の計画には、様々な内容が盛り込まれているが、ここでは、自衛隊の規模の根拠となる部分、言い換えれば、兵力量の算定基準となる部分を大掴みにして特徴的な部分を述べることにする。
 
2.1次防〜4次防
 「防衛計画の大綱」(以下、大綱)が策定される以前の時代については、昭和29年に自衛隊が発足した後、昭和33年に、第1次防衛力整備計画(昭和33~35年)が策定され、以後、第2次(昭和37~41年)、第3次(昭和42~46年)及び第4次(昭和47~51年)の防衛力整備計画が策定された。
 1次防は、当時急速に撤退しつつあった米地上軍の縮小に伴い陸上防衛力を整備すること、海上及び航空防衛力について、ともかく一応の体制をつくり上げることを主眼としていたが、2次防以降は、防衛力整備の目標として、いわゆる「脅威対抗論」に立脚していた。すなわち「軍事的脅威」に直接対抗して我が国を守ることを基本的な考え方としており、基盤的防衛力と対比し、「所要防衛力」と言われる。防衛力を整備する上で本質的な考え方だ。
 
3.51大綱(基盤的防衛力構想の導入)
 その後、昭和51年(1976年)に大綱(51大綱)が策定され、「基盤的防衛力構想」が導入された。これは、「わが国に対する軍事的脅威に直接対抗するよりも、自らが力の空白となってわが国周辺地域における不安定要因とならないよう、独立国としての必要最小限の基盤的な防衛力を保有する」との考え方であり、防衛力が存在すること自体を重視するものであった。また、「限定的かつ小規模の侵略にまで有効に対処する」ものとされた。
 本構想採用の背景の1つに、「デタント」と言われた米ソ間の緊張緩和という時代背景がある。