本稿は、日英関係に亀裂が入りつつあった1930年代、英国がどのように日本を捉えていたかを英タイムズ紙の報道を見ながら述べてみたい。満州事変以降、日本と英米は酷く対立していたというイメージが持たれているが、実のところ英国は日本との協調を模索していた。
本稿は主として1930年代前半、日英協調を模索する英国の動きに焦点を当て考察したい。
満州事変前後の共産勢力への警戒感
満州事変の発端となる柳条湖事件のおよそ3週間前の1931年8月28日、タイムズ紙は「Red Activity in China(中国における赤い活動)1」という上海からの特派員電を掲載した。その中で取り上げられたのが、イレール・ヌーランというウクライナ出身のソ連のスパイをめぐる中国国内での動きだ。
タイムズ紙が伝えたところによると、上海共同租界の警察によって1931年6月に逮捕され、身柄を中国当局に引き渡されていたヌーランの助命を求める「声」が8月、孫文(1866~1925)の妻・宋慶齢の元にドイツから多数寄せられた。宋慶齢はドイツのベルリンに本部を置く反帝国主義連盟(League against Imperialism)の幹部会メンバーとして、多くのドイツの著名人が署名した電報を受け取ったことを明らかにした。これには、ヌーラン夫妻が太平洋労働組合書記局に所属していたことから、労働界指導者たちの名前も含まれていた。反帝国主義連盟と太平洋労働組合書記局は関連団体で、コミンテルンや赤色労働組合インターナショナルとも関係のある共産党系の団体であった。
そんな反帝国主義連盟の総務委員会が1931年7月22日、次のような方針を表明していた。
・中国からの外国軍隊の即時撤兵を目指す
・外国軍隊の兵員を扇動し、中国で赤軍に参加せしめる
・外国軍隊の水兵を扇動し、中国に武器弾薬を運ぶことを拒否せしめる
この声明は「(中国政府が共産主義者に行っている)帝国主義戦争を敗北に導き、栄光のソビエト中国を永遠のものにする」というスローガンで締め括られた。
さらに、それに先立つ6月、同連盟は「アジア人民に向けた決議」を発していた。「日本の植民地では現地人たちが日本帝国主義の残酷な恐怖の支配と闘い続けている」と述べた上で、日本の他に英国、米国、フランス、ドイツが中国の反革命勢力を支援するために資金、武器弾薬、技術・軍事顧問団を送り込み、それらの国々自らも武力を用いている、と非難した。このような中国内の共産勢力の動向をタイムズ紙は詳しく報じた。