カウティリヤの国家戦略論とインド外交

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顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男

インドの首都ニューデリーの中心部にチャーナキャプリ通りという南北に走る一直線の大通りがある。片側が4車線、花壇で彩られた中央分離帯は更に幅が広く、北側の突き当りに茶褐色をした政府庁舎の大建築物が威容を誇っている。インド有数の堂々たる大通りである。近代建築様式の日本大使館は他の主要国大使館とともにこの通りに面しており、30年前の新築時には観光バスが入口ゲート前に停止して外から見学するツアー・ルートが出来たほどの立派な建物である。私が若き書記官としてニューデリーに在勤した当時は新築前で古色蒼然とした大使館の時代であったが、チャーナキャプリ通りに面しているというだけで誇らしい気分になったことを想い出す。
 何故、今、唐突にこうした昔話をするかというと、この大通りの名前の元となっている「チャーナキャ」という紀元前のインド人戦略家が近年俄かに国際政治学者たちの間で再注目され、インド外交を分析する上で彼の説いた理論を理解することが不可欠とされるようになっているからである。チャーナキャは本名をカウティリヤと言い、紀元前4世紀後半にインドを統一したマウリヤ朝のチャンドラグプタ王(アショーカ王の祖父)に宰相として仕えた人物である。「インドのマキャベリ」と称され、彼の手によるとされる『アルタシャーストラ(実理論)』という書物は世界で初めて書かれた現実主義に基づく国家戦略論と言われている。
 彼の国家戦略論の基本は国益を道義的価値観に優先させ「目的のためには手段を択ばず」というプラグマティズムである。目的が正しいのであればそれを達成する手段はそれが何であれ(たとえ謀略・策略でさえ)許されると主張する。「敵の敵は味方」という考え(マンダラ外交論)も基本中の基本である。カウティリヤはこうした「国益第一主義」を貫くことで、インド最初の統一王朝の成立に道を拓いた。中国の戦国時代末期に秦の始皇帝が初めて中国全土の統一を成し遂げたのは紀元前3世紀末であるから、カウティリヤが活躍したのはそれより百年以上前になる。今、国際政治学者や外交理論家の多くがカウティリヤの国家戦略論に着目して現代のインド外交を理解・分析しようとするのは何故か。
 本稿ではインドを取り巻く国際情勢の変化とインド外交の方向性をカウティリヤ理論を視野に入れつつ論じてみたい。
 
1. ネルーの理想主義が残した正負の遺産
 インドが大英帝国の支配を脱して独立を達成したのは1947年である。初代の首相となったジャヤハルラル・ネルーは理想主義の人であった。