中国幣制改革をめぐる日英関係のターニングポイント ー1935年

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研究員 橋本量則

はじめに
 前号(Vol.96)で触れたように、1934年、英国では日本と不可侵協定を結ぶ案が議論され、満州市場に関心を示す英産業界を代表するFBI使節団が日本と満州を訪問した。日本との協調を模索する英国の動きは1935年も続くが、この年は日本にとっても、世界にとっても大変難しい年となった。
 1934年7月、日本では岡田啓介内閣が成立したが、1936年、2.26事件後の3月に退陣することになる。つまり、1935年は日本の国内政治、経済、外交、どれを見ても難しい局面にあった。国内では天皇機関説問題を発端として政軍関係に大きな混乱が生じ始め、外交では、第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催されたが、1936年1月、日本はこれを脱退することになる。これには軍部の圧力があった。また、1935年になると陸軍は華北5省を国民政府から分離しようという所謂「華北分離」工作を始め、政府もこれを容認するようになる。
 加えて、世界経済の混乱が中国大陸の情勢をさらに複雑なものにした。特に、米国の銀政策による銀価格高騰が銀本位制を採用する中国の財政・経済を直撃し、中国内の混乱に拍車をかけた。
 そんな中、中国大陸に権益を抱える英国がこの事態を打開しようと動き出す。英国が対中援助のパートナーとして頼みにしようとした相手が日本であった。これには前年から続く、日英協調を模索する英国内の動きが関係していたことは言うまでもない。しかし、この日英協調の動きは日英米中の複雑な関係性の中で実現することはなかった。本稿では、その原因を各国の動きから考察していきたい。
 
日本の対中政策
 1933年5月31日、日中間で塘沽協定が締結され、満州事変の停戦が成立した。その後、満州事変は何とか収束に向かいつつあり、中国側も、汪兆銘行政院長が南京の政治会議において日本が東亜の安定勢力であると確認し、国民政府が排日言論を厳禁する命令を出すなど、日中は歩み寄りの姿勢を見せていた。日本の外交当局も、在中国の公使を大使に昇格させ、日中関係の処理に当たらせることで満州事変後の混乱を収束させる考えでいた。
 しかし、中国問題において強い影響力を持つ軍部が大使昇格問題に反対していたこともあり、外務省の政策を封じようと様々な企図をめぐらしてきた。当時の日中関係をよく知る重光葵は「関東軍は満州の治安を維持するために、華北、内蒙古方面にまで手を伸ばすという計画を立て、中国問題は外務省の手から引き離して軍部の手で処理しようという考え方であった」と述べている。
 つまり、関東軍が満州事変の最終的な解決を華北の分離によって実現しようとする一方で、外務省はあくまで外交によって最終的な決着を目指していた。