1986 年11 月21 日、当時「護衛艦ひえい」船務士だった私は相模湾での訓練を終え、艦は針路を東に向け横須賀港に帰投中でした。何気なく艦橋右舷のウイングに出て陸測艦位を測定しようとしたその時、眼前の伊豆大島の三原山の山頂付近から巨大な4 本の火柱が天に向かって突き上がっているのを視認しました。その火柱は余りにも巨大で高く、暫くは何が起こっているのか理解できない状況でした。そうしているうちに艦長は災害派遣を予期し面舵をとって針路を伊豆大島元町港沖に向けました。その後、当該海域で海上保安庁や東海汽船等の船舶と協力し、約1 万人の島民を噴火から僅か13 時間余り、延べ38 隻の艦船で1 人の死者、傷者もなく無事伊豆大島から脱出させることができたのです。この避難が成功したのには主に3 つの理由がありました。1 つは伊豆大島周辺に避難に適した陸岸(伊豆半島、三浦半島)などがあったこと、地元の消防団員の隊員たちが所管する地域の住民たちを日常的に把握していたこと、そして当日の天候が穏やかで海上輸送に支障がなかったことといわれています。以上が三原山噴火時の1 万人島民の避難成功の概要ですがこの事例は台湾有事に際しての南西諸島島民の避難についても教訓を与えていると思います。少し長くなりますが以下:東京都立大学都市研究センター「総合都市研究第31 号1987」の記事を紹介します。
《 ここで特筆しておきたいのは、高齢化先進地域大島町で、それを支えた消防団員の活動である。