混迷の時代―日本の覚悟と備え―

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顧問・前統合幕僚長 河野克俊

1 安倍元総理の死

   日本は混迷の時代に入りつつある。先ず国内的にこれを象徴する出来事は、安倍元総理が亡くなられたことである。総理を退かれた後も節目、節目で積極的に発言され、日本の政界を牽引されていたが、安倍元総理が亡くなられたあとは、政界は羅針盤を失ったごとくまさに混迷の度を深めている。

  海上幕僚長時代の2013 年4 月、首相に返り咲いた安倍総理を硫黄島でお迎えした。ご承知の通り硫黄島は日米の激戦地となった場所であり、後に安倍総理は米国議会での演説の中でも硫黄島の戦いを取り上げた。その硫黄島で安倍総理をお迎えした時の印象は鮮烈だった。視察を終えた安倍総理をお見送りする際に、私の眼前で思いもかけないシーンが展開されたのである。

  安倍総理は航空機に乗り込む際、スーツのままいきなり滑走路に跪ひざまずき、手を合わせて、頭こうべを垂れたのである。そしてその後滑走路を手で慈いつくしむように撫でられた。報道陣は先行して次の視察地である父島に既に向かっていたので、このシーンは目撃していないし、報道もしていない。従ってパフォーマンスでも何でもない。私も含め随行者は誰一人予期していなかった行動だった。総理は滑走路の下にも日米の将兵のご遺骨が埋まっていることをご存じだったのだ。安倍元総理は心底、戦没者に対する哀悼の念の深い方だった。安倍元総理にとって靖国参拝は正真正銘、心の問題であり、政治ではないのだ。また、安倍元総理は国家観、歴史観のある政治家だと評価されている。私はこの場面を目撃し、安倍元総理の国家観、歴史観の根底にあるものは戦没者への哀悼の念だと確信した。だから本物なのである。リーダーは国家観、歴史観を持つべきだとよく言われる。しかし、その根底にその組織のために犠牲になった方々への哀悼の念がない国家観、歴史観は安っぽいものであり、本物ではない。国家リーダーの場合は、それは戦没者への哀悼の念ということになる。

  統合幕僚長になってからは、基本的に週1 回は自衛隊の動き等について総理に直接報告するようになった。それまで制服組が官邸に頻繁に出入りする光景などあり得なかった。従来、日本では戦前の軍の独走という経験をしていることから、シビリアン・コントロールとは自衛隊を極力政治から遠ざけることだとの考え方が主流だった。しかし、安倍総理は逆で政治と自衛隊の距離を近付けることが、真のシビリアン・コントロールだと考えていた。