時事通信の「坂の上の雲」

.

政策提言委員・拓殖大学大学院特任教授 名越健郎

 外交評論家の田久保忠衛氏が2024 年1 月9 日に90 歳で亡くなられ、3ヵ月後の4 月9 日、政治評論家の屋山太郎氏が後を追うように、91 歳で亡くなられた。
 二人は時事通信の名物記者だった。退社後の活躍はよく知られているが、記者時代の二人は若い頃から盟友関係にあり、社内外での存在感は当時から巨大だった。私は時事通信の約20 年後輩で、公私ともに大変お世話になった。「保守派の論客」「憲法改正論者」といった新聞の訃報記事では分からない二人の側面を紹介する。
新入社員研修の衝撃
 私が二人に最初に会ったのは、1976年4 月に時事通信に入社した後の新入社員研修で、強烈な印象を受けた。他の部長らの話はすっかり忘れたが、二人の話は今も覚えている。
 外信部長だった田久保さんは「通信社は速報が生命線だ」と強調し、1963 年11 月に米テキサス州ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件の際の通信社記者の第一報について話した。
 当日、大統領専用車の数台後をAP 通信とUPI 通信のネリマン・スミス記者が乗る大統領番の車が続いていたが、銃声を聞くと、スミス記者は社内に1 台あった電話を素早く取って放さず、「Kennedy Shot」の一報を流し、電話を独占して世界的なスクープを飛ばした。田久保さんは前ワシントン支局長らしく、このエピソードを臨場感豊かに話し、「速報の時事」を忘れないよう強調した。
 当時はロッキード事件が進行中で、時事のワシントン支局が前日書いた特ダネの経緯も説明した。時事通信はメディアでは地味で経営状態もよくなく、新入社員が卑屈にならないよう、通信社社員として誇りを持つよう鼓舞した。
 1 週間の研修の最後は日光旅行で、当時あった社の保養施設に一泊したが、教育係として同行したのが屋山さんだった。学生時代に屋山さんが『文藝春秋』に書いた「日教組解体論」を読んでいたので、こんな大記者が来てくれるのかと驚いたが、当時は政治部編集委員で余裕があったらしい。電車の中に新聞を何紙も持ち込み、鋭い視線で熟読していた。
 屋山さんは研修でいきなり、「会社でカネを稼いでいるのはせいぜい2 割で、残りは給料泥棒だ。君らは2 割の中に入れ」と檄を飛ばした。この名言は、その後も何度か思い返した。
 屋山さんはまた、「取材先とは対等に付き合え。政治家からご馳走になったら、田舎に帰った時でも土産を買ってお返ししておけ」と言っていた。当時は田中金Japan Forum脈問題が社会問題になり、政治家と政治記者の癒着が問題視され、屋山さんはそのことが不満だったようだ。