屋山太郎先生の逝去を惜しむ

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理事・拓殖大学政経学部教授 丹羽文生

 去る4 月9 日、本フォーラム(JFSS)会長で政治評論家の屋山太郎先生が91年の生涯に幕を閉じた。そう遠くないうちにやって来ると覚悟はしていたものの、実際に訪れてみると、寂寥と追慕の念、禁じ難いものがある。

 先生との交流が始まったのは勿論、JFSS を通じてである。何とも言えない威厳と壮麗さが漂い、些か近寄り難かったが、会長就任以降は、同じ役員として頻繁に顔を合わせるようになり、徐々に距離を縮めていった。

 「喧嘩太郎」の異名を持ち、長年に亘りジャーナリズムの世界で、数多くの大物政治家たちと対峙してきただけに、まさに「戦後日本政治史の語り部」とも言うべき存在だった。その政治評論は辛口ではあったものの常にユーモアで包まれ、自らの信ずるところをストレートに出すところが先生の持ち味だった。

 元首相の田中角栄側近である早坂茂三から差し出された札束を人差し指でピンと弾き返したところ指先が痛くなったこと、元文部大臣の田中龍夫に小馬鹿にされ啜っていたラーメンを田中の頭に丼ぶりごとぶっかけたこと、高級料理屋で縁側から庭園に向かって立ち小便をしていた衆議院議員の中村弘海の尻を蹴飛ばしたこと…。終始、笑いっ放しである。

 一方、時事通信社退社後、土光臨調(第次臨時行政調査会)のメンバーとなったのを皮切りに、行政改革に深く携わるようになり、これをライフワークとしていただけに、官僚支配の構造が話題に上がると、途端に表情が厳しくなり、ある時、筆者が農林水産省の高級官僚によるJA グループへの天下り問題に触れた際は、思わずこちらが謝ってしまいそうなくらいの火を吐くような舌鋒を展開された。

 ある日の早朝、JFSS の長野禮子理事兼事務局長から先生に電話を入れるよう連絡があった。何やら先生が筆者に聞きたいことがあるという。1972 年9 月の日中国交正常化の基礎となる「日中共同声明」の「読み方」に関する件だったと記憶する。

 約1 時間、怒涛の質問攻めに。途中で繰り返しストップが入る。メモを取っていたようである。旺盛な取材意欲は晩年まで衰えることはなかった。

 先生は2017 年4 月に会長に就任、爾来、約7 年間に亘ってJFSS を率いて下さった。大規模なシンポジウムから小規模の研究会に至るまで小まめに顔を出しては歯に衣着せぬ屋山節で参加者を沸かせ、『季報』やホームページを通じて輪郭鮮明で小気味良い政治評論を披露された。そこには常に揺るぎない国家観があった。