小野寺でございます。今日このような光栄な機会を与えて頂きありがとうございます。今、島田副会長から安倍総理のお話がございました。私も実は同じ立場でありまして、第二次安倍内閣で初めて任命された防衛大臣が私であります。ですから、国家安全保障戦略を作る時は、安倍総理、菅官房長官、岸田外務大臣、そして防衛大臣の私が中核で作りました。1 回目の国家安全保障会議にも参加し、その後、特定秘密保護法、また今回のセキュリティ・クリアランスの法律が今、衆議院を通っていますが、この基となる特定秘密保護法では担当大臣として法律制定の役割を担いました。
その後の平和安全法制、一昨年の防衛3 文書、そして防衛装備移転、いずれも党の安全保障調査会長ということで、実は党側の政策の取り纏めを致しました。今日はその時お世話になった防衛省の関係者もたくさんいらっしゃいますので、久しぶりに嬉しい気持ちでおります。
そういう中で装備移転も含め、私ども安全保障の体制をしっかりしようということ。その根幹について、改めて皆さんと確認したいと思っております。 私は防衛大臣を2 度仰せつかりましたが、一番嬉しいのは大臣を退任する時です。なぜ嬉しいかと言うと、自分の任期中に隊員に1 発の銃弾を撃たせることなく、この国の平和を保つことができたということです。実はその重みを感じながら大臣の仕事をしていますので、それが無事に終了したという事ですから、この時が一番嬉しいのであります。
今、木原大臣も同じ気持ちで1 日1 日、この国の平和を保つために努力をしていると思います。私ども防衛当局の最大の仕事は、戦争・紛争を起こさない事、平和を続けていく事。これが最も大事な仕事です。逆に言えば、戦争はどのように起きたんだろう、紛争はどのように起きるんだろう。これを研究すれば、どうすれば起こさないで済むかということが分かる。その事をもとに、私は今の防衛政策を自民党の中で進めていますし、また政府に対しても、その問題について後押しをしています。
間違ったメッセージが戦争を生む
さて、我が国近隣で起きた大きな紛争は1950 年に始まった朝鮮戦争で、53 年に休戦したものの未だ終戦には至っておりません。この紛争が何で起きたかということですが、ご存知の通り、大方の研究者の間では当時の米国務長官アチソンの演説が戦争に繋がったというのが最近の定説であります。1950 年1 月、アチソンが演説を行った時に米国の防衛ラインは「フィリピン~琉球列島~日本~アリューシャン列島」だと発言しました。何故ここに線を引いたのかは今でもよく分かりませんが、恐らく「ここまでのラインは手を出せないけど、これ以外のラインは手を出してもいいんだ」という間違ったメッセージが世界に広がったのではないか。その後、このラインに入っていないインドシナではベトナム戦争やカンボジア紛争など様々な紛争が起きました。そして、アチソン演説の約半年後の1950 年6 月25 日、北朝鮮が韓国に侵攻、朝鮮戦争が勃発しました。