はじめに
今年はインパール作戦から80 年に当たる。この戦いは「わが陸軍の戦史において未曾有の敗戦1」と言われるほどの惨敗に終わった。参戦兵員約10 万のうち、3 万が戦士し、2 万が負傷し、3 万が病人となり、インパールからの退却後に戦える兵士は2 万以下となっていた。
一般的に、インパール作戦については作戦の司令官であった第15 軍司令官・牟田口廉也1 人が策案強行したように理解されており、その作戦で犠牲になった方々の遺族の恨みを牟田口1人が集めている感がある。我が国の「公刊戦史」とも言える戦史叢書にも次のような記述がある。
《 この作戦は後方補給の点で致命的な難点があり、当初は方面軍、南方軍、大本営ともいずれも実行困難として容易に同意しなかったのであるが、第十五軍司令官牟田口廉也中将の固い信念と、各方面に対するたゆまぬ説得とにより、ついに方面軍以上の同意を得て決行するに至ったものである2。》
確かに、牟田口の責任は大きく、彼が率いた第15 軍はその統制上未曾有の事態を引き起こした。1943 年3 月から7月までのたった4ヶ月の作戦中に隷下3師団の師団長が全て変わったのである。第15 師団の山内正文中将は病気のため更迭。第33 師団の柳田元三中将は軍命令に不忠実で罷免。そして、第31 師団の佐藤幸徳中将は、司令官・牟田口の命令に反抗し免官となった。