「身の丈発言について」

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会長・政治評論家 屋山太郎

 萩生田光一文部科学相の「身の丈発言」についての朝日新聞を見ていると、文相辞任までほのめかし、安倍内閣が致命傷を負ったかのように感じさせる。萩生田氏の身の丈発言はBSフジの番組で、来年度から始まるはずだった大学入試の英語のヒヤリング試験をめぐる説明の中で出た。試験を民間に任せる場合の公平さ、既にある民間の試験を採用するかどうかなど煮詰まっていないとの理由で導入延期になった。
 発言内容は「裕福な家庭の子供が回数を受けてウオーミングアップできるというようなことがあるかもしれないが、自分の身の丈に合わせて2回をきちんと選んで頑張ってもらえれば・・・」というものである。
 これに朝日新聞が食いついた。10月30日の社説でこう言う。
 「入試には貧富や地域による有利不利が付きまとう。その解消に努めるのが国の責務であり、ましてや不平等を助長することがあってはならない。それなのに教育行政トップが〝身の丈〟を持ち出して不備を正当化したのだ。格差を容認すると批判されたのは当然である」
 11月7日朝刊は前日、国会で無所属議員が萩生田文科相に「身の丈発言でいろんな人を傷つけた。自ら辞任されるつもりはないか」と質問したが、文相に「私の責任で制度を作り直す」といなされてしまう。野党議員が安倍首相に、辞任した2人の大臣の名をあげ、 あたかも3人目が萩生田氏と言わんばかりの追求までしている。
 7日の朝日社説では「『任命責任は口だけか』と題して2012年の政権復帰以降、疑惑や失言などで辞任した閣僚は10人に上る。真に反省し、教訓をくみ取っていれば、事態はこれほど繰り返されなかったはずだ」という。同日の紙面では4段見出しで「民間試験、広がる追及」と打ち出している。この紙面作りには、なにかと因縁をつけて閣僚辞任まで攻め込もうとの思惑が丸見えだ。
 「身の丈に合った生活をしろ」というセリフは、昔、親が子供に言ったものである。無茶なことや見栄を張らずに、自然に振舞えということだろう。日本社会が欧米よりも落ち着いているのは、皆が身の丈に合った生活でよしとしているからではないか。日教組が階級意識を植え付けてやたらに闘争を煽ったのが戦後社会だ。「身の丈」と聞いただけでカッとなり、政治は責任を取れと粋がるのはもう古いのである。「お天道様が見ている」という日本語も実にいい言葉である。少々のワルならこの言葉一つで真人間になりそうだ。
 政治の世界も随分変わってきた。昔は朝鮮について「併合して悪かったが、良いこともした」と言っただけで大臣の首が飛んだものである。藤尾正行文部大臣は「辞任するいわれはない」と突っ張ったため、中曽根康弘首相から罷免された。辞めてくれないと首相の首が危うくなるからだ。
(令和元年11月13日付静岡新聞『論壇』より転載)