「昭和の政治家に見る『武士道』」

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会長・政治評論家 屋山太郎

 今回はニュースの裏側について話してみたい。新聞・通信社を目指して来る者は、「民主主義を完成することに協力したい」とか、「正義が正しく発揮できることを目指したい」と社会正義を一義的に考えている。これは後に会社の入試委員をやった時に学んだものだが、私はそういう“立派な考え方”をもって入ったわけではなかった。入社して農水省を担当していた頃、農業基本法全文をスクープした。親しい課長の机の上にレポートが置いてあるので、「1時間貸して下さい」と強引に持ってきたものだ。社長室に呼ばれて“特賞”を貰ったが、その際、社長は私に「君は何のために時事通信社に入ってきたの?」と尋ねる。私は「何が何でも外国に行きたいと思って入りました」と答えた。社長は「そうか」と言ったあと、「では、出してやろう」と言う。それまで、フランスやイタリアの留学生などの難関を落ちた後だけに、レポートのかっぱらい“仕事”で外国に行けるなど、世の中の抜け穴ではないかと不可思議だった。
 時の農林大臣は倉石忠雄という。歳は私のオヤジと同年。それがその後の人間関係にどういう影響をもたらすのか。私は生涯親しみを感じた人物である。当時、倉石は福田派の“客分”と言われていたが、“子分”ではない身分を発揮していた。角福戦争の時、福田派の金脈から億単位のカネが届いた。倉石は「領収書はいるか」と尋ね、相手は「要らない」と答えた。私は当然「頂く」と答えると思ったら「それでは要らない」と毅然として言う。福田の信条は「政治は浄財で行う」というもの。倉石は金脈側とのやり取りに一切の乱れがない。“客分”でなかったら受け取っただろう。
 この倉石が政調会長になった時、所信表明に何を取り上げようかと悩んでいる。私は当時、文部省担当だったから、文教問題を進めた。日本人は米国の新しい文化を見て、慌てふためいているが、私たちが中・高・大学と改めて見てきたものは立派な日本ではないか。祖先は立派だったという話はどうか」と。すると倉石は、「それはいい。では君が立派な論文を書いてくれよ」と言う。私は書いたり削ったりして、最後は「従って、日本共産党は不要なのだ」と結んだ。議場は左右両派の大騒ぎとなったが、倉石は党内から賛同された。
 一段落すると倉石が私の小脇に分厚い封筒を持ってきた。「これは原稿料」と言うので、私は「原稿料は会社からしか受け取れません」と拒否した。「大臣、その代わりに、私が教えてくれということを教えて下されば結構です」。
 倉石はソ連とのサケ・マス交渉が目前に迫っていることを知ってか知らずか、「大臣、今夜がその日です」と言うと、「君しか出ないという電話の番号を教えてくれ」と言う。
 夕刊に間に合う時間に倉石レポートが入ってきた。「サケ・マス9万トン」と条文通りに倉石が読んでいる。北方の漁船は港を離れて漁場に向かった。
 水産庁長官が石倉大臣に「農業基本法全文が洩れました」と謝りに来たそうだ。大臣は「気を付け給え」と一言、言ったという。