私のある友人は、何か話を始めるといつも思考がワンパターンで、今となっては亡霊のような、所謂「資本家・階級・搾取・労働者・暴力機構」といった左翼言葉から抜けきらない。知識はとてつもなく広く、その意味では常々敬服しているのだが、きっとあの「青い山脈」の頃の時代空気を温存しているのであろう。
国境は無用だとか、私達は地球市民だとか、夫婦別姓が良いだとか、封建制度の欠点を説かれても、こちらは戸惑うばかりである。国際情勢にも国内問題にも思いを致さず、左翼思想に溺れた、謂わば「昔取った杵柄」だけを大事にするこの不思議な病気はもう治らないのかと思うと議論をすることが面倒くさくなる。人は何故にこうも頑なになれるのかと不思議に思ってきた。
ところが最近、西部邁さんの著作「教育―不可能なれども―」(ダイアモンド社)を読んでいたら、長年のこの疑問の解決になるかも知れないという指摘に出くわし、嬉しく思っているところだ。
曰く、教育は知育と徳育より成るが、徳とは元来「ヴィルトウ」即ち「精神の力強さ」を意味し、要は「気概」を持つことらしい。知識は生育の各段階で外から与えられ、間違いに気付いた時に修正も容易であるが、気概を得るには自らの努力が必要であり、やっかいなことに子供の頃の教師からの刷りこみに影響される場合が多いらしい。
子供たちが持つべき価値観を教師好みのまま子供達に仕込むというのは、お仕着せ、管理、抑圧である。教師はその立場を心得るべきであり、子供達に偏った価値観を教えるのはご法度である。
戦後の日本では、このご法度が日常的に犯されてきた。日教組は教材の選択・授業・日常の生徒との会話においてさえ、労働組合の主張そのものを生徒に刷りこむことに努めてきた。雛の頃に身近な猫からぬくもりをもらった鳥は、成鳥に至っても猫を自分の親と誤認するように、特殊な教育を受けた子供は子供時代に刷りこまれた考え方から離れることは難しいらしい。そう云えば、全国一斉学力テストに反対する地域や県に一定の傾向がみられるのも、このような教師の特殊な価値観の刷りこみ、即ち“徳育”の効果なのかもしれない。私たちは子供や孫がどんな考え方をしているのかを時々チェックし、必要に応じて修正してやらないと、一生日教組の代弁をする歪んだ国家観を持つ子供にしてしまう危険性がある。このことを強く認識する必要がある。
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