今回は、ソ連、ロシア研究においては日本を代表する権威と言われる名越健郎先生をお招きして、氏が昨年末上梓した『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)を基に、冷戦期における米ソによる日本政界への資金工作についてお話し頂いた。
まず、米ソが情報公開している公文書館について、例えば米国では「米国立公文書館」や「大統領の図書館」等、ロシアでは「現代資料保存センター」や国立公文書館、日本では「外交史料館」等が挙げられた。
次に、外国資金援助の規制では、日本の政治資金規正法(1948年)と、主要国の外国政治資金規制に触れ、その中身の違いについての説明があった。日本でも与野党国会議員らによる受領疑惑が浮上した事も話題となった。
1945年から始まった米国の対日工作は1972年の沖縄返還、田中首相訪中まで続く。この間の動きとして、米NSC、CIAの活動による戦後の日本を反共の拠点とするための対日政策の実態、例えば自民党結成への働きかけや巣鴨プリズンに収容されていた岸信介への接触もあったことなどの説明がなされた。とは言え、特に岸に関連する史料の多くは依然として機密指定が解かれていないという。
また、1958年の衆議院総選挙は自由民主党と日本社会党との事実上の一騎打ちとなったが、下馬評での支持率が芳しくなかった岸内閣に対して、佐藤栄作が米国に資金援助要請をしている。この他、1965年の沖縄・地方選挙時には、当時ベトナム戦争を戦っていた米国は、沖縄の政情不安を回避するという目的から、ライシャワー駐日大使が自民党を通じて保守勢力への資金援助を提案したことも明らかになっている。
続いてソ連の対日工作では、コミンテルンはアジアでは中国共産党や日本共産党の結成を促した他、戦後ヨーロッパでもフランスやイタリアで共産党の勢力を伸ばしていった。但し、戦後のソ連側(KGB、共産党国際部)のテコ入れは日本よりもヨーロッパの方が強く、それは援助額の差(後述)に表れている。
また、上述の1958年総選挙で振るわなかった日本共産党(1議席)は、それまでの戦略の見直しもあって、以来ソ連と距離を置くようになった。一方、ソ連は1964年頃から日本社会党へ接近するようになった。しかし、その援助は資金援助というよりは日ソ友好貿易協会を通じた間接援助の性格を有しており、売り上げ・利益の一部が日本社会党系の商社へ回されていた。
最後に米ソによる具体的な資金援助については、日本共産党10~25万ドルに対して、主にフランス、イタリア等には500万ドルを超える資金提供をしており、冷戦の主戦場はヨーロッパであったと言える。また、日本の政党(自民、共産、社会)が資金を受領する際は、岸・佐藤、野坂・袴田、成田・石橋など、個人を窓口として提供されたため、その用途は不明なものも多く、この点は米ソ側の文書にも一切記載が無いという。
このように、戦後史における両大国の対日政策が個々の歴史的事象に作用していたことまでは分かるものの、当時の国際社会に渦巻く利害の全容解明は容易ではない。戦後75年、情報公開が進む今、各国の研究者の公正な目による分析に期待し、20世紀初頭からの「歴史」を改めて享受したいものである。
*新型コロナ感染拡大防止のため、少人数での開催とし、関係者には動画配信とする。